2022/3/28-4/2

2022/3/28(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 6:2b-10 賛美 新聖歌 156

 この箇所には二種類の「大きな利得」について記されている。3-5節では「信心を利得の道と考える者」の間で起こるものについて述べられている。彼らは異なる教えを説き、主イエス・キリストの健全な言葉にも、信心に基づく教えにも従わない。「より深い真理への道」なぞと主張し、多額の金銭を要求するがその実は、精神が腐り、真理に背を向け、信心を利得の道と考える者である。金銭の欲はすべての悪の根であり、金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいるのである。

 一方で、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道である。わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができない。イエスは「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31-33)と教えておられる。幼子のような神に対する全き信仰こそ、大きな利得の道である。

2022/3/29(火) 担当 ラウジー満世師 マラキ書2:17-3:5 賛美 リビングプレイズ81 主を待ち望む者は

 世の終わりの日に裁きの主が来られると信じて待ち望んで生きることは期待と同時に大きな疲弊を与える。待ち望む緊張に耐えられなくなった人々はそもそもそのような神がどこにいるのか、もしいないのならばそもそも信仰は意味があるのかと言い始めた。それに対してマラキは確かに神が再び来られると語り、このような不平をもって主を疲れさせている民の罪を指摘した。主は裁き主として来られる。神は神の民の中から精錬する火によって悪を行う者たちを清め、取り除かれる。その裁きには躊躇や時間的猶予はもはや残されていない。その時に呪術や姦淫や偽りの誓いを行う者や、社会の中の弱者に憐れみと慈しみを示さないという罪を犯す者は清めの炎によって取り除かれる。

 いつの時代にも人々はマラキの時代の信仰者のような情況に簡単に陥ってしまうものである。主を待ち望むことに疲れ果てて神を侮ってしまうこともあるかもしれない。しかし聖書は「主は来られる」と語る。御言葉によって正しい歩みを知り、み言葉によって励まされ、主を待ち望みつつ、神の助けによって正しい道を歩ませていただこう。

2022/3/30(水) 担当 高谷清師 Ⅰテモ 6:11-16 新聖歌 384

 パウロは6章からなるこの手紙において三度にわたって偽教師たちの教えに立ち向かった。この箇所に至って「偽教師たちの教えを避け、信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」と勧める。そのためには、正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めることが求められる。新共同訳が「信心」と訳しているところを協会共同訳・新改訳は「敬虔」と訳している。この箇所についてヨアキム・エレミアスは

「(人間に対する)正義と(神に対する)敬虔を目指して、つまりキリスト教の三大主徳である信仰と愛と忍耐(テト2:2にも同様の三対がある)、さらに第四としてつけ加えられた柔和を目指して戦う。こ柔和は、決して弱り果てることのない赦しの愛をもって、兄弟の罪と過ちを担う力である。」(NTD新約聖書註解9 テモテへの手紙・テトスへの手紙・ヘブライ人への手紙P86 NTD新約聖書註解刊行会1975)

と記している。

 クリスチャンと自称しながらも世と妥協して享楽と安逸に歩む者の多い中に在って、正義、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める道は忍耐を要する道である。その忍耐は神が定められた時にキリストを現してくださる時、報われる。イエスは言われる「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。」(マタ24:12-13)と。

2022/3/31(木)担当 ラウジー満世師 マラキ書3:6-12 賛美 新聖歌282

 緊張に耐え切れずに再臨の主を否定までする民を、神は諦めて見捨てられるのだろうか。ここでは神がなおも彼らに悔い改めを呼び掛けておられる。主は変わることがないのである。この神が求められるのは民が立ち帰ること、つまり生き方とふるまいを変えることであった。それは心の変化が行動の変化として現れたものである。具体的には民が定められた十分の一の献げ物をないがしろにしていることを改めよと言われる。いなごによる作物の不作から経済はひっ迫し、献げ物をないがしろにしてしまったのだろう。しかし神はどんなときにも神の御心と律法に従うことによって真実に歩み、神の真実を知れと言われる。その神の真実は諸国民の民にも知れ渡り、その神の民であるイスラエルは幸せなものと呼ばれる。

 マラキが遣わされた時代の神の民も苦しみと嘆きの中を生きていた。具体的に神の救いの御業が日々の生活においていつも実感できない中で忠実であり続けることは大きな試練である。しかしその中で神に従い通す時に必ず祝福と救いを得られる。

2022/4/1(金) 担当 高谷清師 詩 67:2-4 賛美 聖歌総合版 475 聖歌463

 詩人は「神が私たちを憐れみ、祝福し/その顔を私たちに輝かせてくださいますように」と祈る。それは自分達が満足するためではなく、与えられた祝福が溢れ出して隣人、隣国の民が神を知り、救われ、神を賛美するためである。かつて神はアブラハムに対して「わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。」(創 12:2)と語られた。

 私たちが神の祝福に与る時、同時にそれは大きな使命を託されていることを自覚しょう。そしてその恵みを自らの喜びとするだけではなく、互いに分かち合い、共に神をほめたたえよう。それによって主の栄光は拡大し喜びは倍増する。

2022/4/2(土) 担当 高谷清師 Ⅰヨハ 5:14-15 賛美 聖歌総合版 473 聖歌 460

 み言葉はクリスチャン生命の糧、祈りはクリスチャン生活の呼吸であると言われる。御言葉と祈りはクリスチャン生命にとって両輪を為す重要な要素である。祈りは神との交わりである。聖書は「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創 2:7)と語っている。「命の息」は人の命であった。しかし人がサタンの誘惑によって神の言葉に背いたことによって人の内から「命の息」は失われ、神との交わりは断絶し、人は死の支配に服した。このような状況の中でも人間を愛してやまない神は独り子イエスをこの世に遣わし、このお方にすべての罪を負わせ、十字架につけ、それによって人を罪から贖い出し、神との交わりの道を備えてくださったのである。ヨハネが「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(Ⅰヨハ 1:7)と語っているとおりである。従って祈りの第一条件は御子イエスの十字架の贖いを信じる信仰により、罪の赦しを得ていることである。