2022/4/4-9

 2022/4/4(月) 担当 高谷清師 Ⅱテモ 4:2 賛美 聖歌総合版

 文豪夏目漱石は愛娘ひな子の葬りの日の日記に

「昨日は葬式、今日は骨上げ、明後日は納骨、明日はもしするとすれば逮夜である。多忙である。然し凡ての努力をした後で考えると凡ての努力が無益の努力である。死を生に変化させる努力でなければすべてが無益である。こんな遺恨はない」(定本漱石全集第20巻P358岩波書店2018)

と記している。

私たち(高谷清・由紀子)は高齢化による体力の限界を悟り、3月末日をもって姫路神愛キリスト教会牧師職を辞し、隠退いたしました。しかし、「死を生に変化させる」力、それは広い天地宇宙の中でもキリストの福音以外にはありません。それゆえ、ラウジー満世師の協力を得ながら、体力の許す限り、本欄の執筆を続けてまいりたいと願っております。これを通して共に祈り御力に満たされ、主に仕えてまいりたいと願っております。なお、今週からはテキストとして聖書協会・共同訳を使用いたします。ご了解ください。祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。私たちのためにもお祈りください。

2022/4/5(火) 担当 ラウジー満世師 創世記1:1  賛美 新聖歌166

聖書の冒頭に置かれている創世記の最初の一文は神について述べている。最初に神が天地を創造されたのである。これは幼い時から学校で学ぶ進化論とは全く異なる主張であるため、多くの日本人にとってはおとぎ話のように聞こえるだろう。しかし聖書は最初から創造者としての神を示している。歴史を通じて教会では信仰告白が受け継がれている。現代でも広く用いられている信仰告白の一つである使徒信条も「我は天地の創り主、全能の父なる神を信ず。」という告白から始まる。また、聖書には、この世界を創造された神が被造物を保っていてくださり、すべての人の罪を贖う方であると繰り返して語られている。

 聖書がすべての人々に伝え、啓示している神とは初めに創造の業をもってこの世界を造られたお方である。私たちは被造物の一部であり、創造主である神のゆえに存在している。そして日々命を保たれ、環境を整えられ、創造者の御手の中で赦しと贖いを得て生かされているのである。聖書を通してこの創造者である神を知り、神に出会いたい。

2022/4/6(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:1 聖歌総合版 519

 使徒言行録によるとパウロはこの手紙を書く前にガラテヤ地方を二度訪れて福音を伝えている。一回目は第二次伝道旅行であり、二回目は第三次伝道旅行である。最初に福音を伝えた時、ガラテヤの聖徒たちはパウロが肉体的に衰弱しており、彼の肉体にはガラテヤの人々のつまずきとなるものがあったにもかかわらず、蔑んだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の天使のように、そればかりか、キリスト・イエスのように受け入れてくれた。第三次伝道旅行の際立ち寄った時にはガラテヤの聖徒たちが堅実な信仰の歩みをしているのを確認したのである。しかし、パウロの去った直後、ユダヤ教的律法主義に立つ伝道者たちがガラテヤに入り、異なる教えを伝え、ガラテヤの聖徒たちの中から同調する者たちが現れ、教会は危機に立たされた。このような状況を見てパウロは急遽、この手紙を書き送った。ぺトロは「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、誰かを食い尽くそうと歩き回っています。」(Ⅰペト5:8)と警告している。祈りを怠らず、常に光の内を歩もう。

2022/4/7(木)担当 ラウジー満世師 創世記1:1-5  賛美 聖歌総合版201 聖歌 232

 聖書の冒頭で神こそが創造者であるということが宣言された。この神は混沌の中に秩序を与え、世界を創造された。神は第一日目に光を創造された。闇の中に主の御声をもって光が存在するように命じられると光が出来た。圧倒的な神の権威と力に驚く。創世記1章には神が6日間をかけて創造の業をなさることが記されているが、その御業のすべては神の言葉によって進められていく。神の言葉には力があり、神が命じられたことは必ず実現する。人間が命令をしたらどうだろうか。高い地位にあり、沢山の人々を導く指導者が命じたことは、それに従って働く人がいて実現することもあるだろう。しかし言葉を発したらそれがどんな内容であろうとすべての創られた物がその通りに変化していくという力ある言葉を私たち人間が持っているわけではない。しかし聖書が語る神はすべての権威を持ち、力を持ち、言葉によって世界をすべ治めるお方である。

 神の言葉には力がある。それゆえに聖書にしるされている神の言葉は真実であり、信じるに足るものである。心を開いてこのみ言葉を聞こう。

2022/4/8(金) 担当 高谷清師 詩 67:5  賛美 聖歌総合版679 聖歌 630

 詩人は「諸国の民は喜び祝い、喜び歌います/あなたがもろもろの民を公平に裁き/この地において諸国の民を導かれるからです。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「神の審きの中には神の「義」が、この世における神の権限と秩序として啓示され、また世の救いを目指す神によって歴史の意味が達成されるという思想である。ここでは神の審きは、われわれがあてにし頼れる神の救いの秩序である。それゆえ、心から神を喜ぶ思いがそこから湧き出るのである。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P171』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)

と述べている。パウロは「実に、被造物全体が今に至るまで、共に呻き、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけでなく、霊の初穂を持っている私たちも、子にしていただくこと、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいます。」(ロマ 8:22-23)と述べている。裁きの時、神の義が掲示される時、それは義に生きるすべての者の喜びと希望の時である。

2022/4/9(土) 担当 高谷清師 マタ 6:5-8 賛美 聖歌総合版538  聖歌 520

 この箇所には祈りについてのイエスの教えが記されている。その第一は「また、祈るときは、偽善者のようであってはならない。彼らは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈ることを好む。よく言っておく。彼らはその報いをすでに受けている。あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」ということである。祈り―それは神との一対一の会話である。対話をする時には相手に集中することが求められる。ましてや、他者から「あの人は良く祈る信仰深い人」という評価を得たいという下心をもって人々の目につきやすい所で祈ると言ったことがあってはならないのである。