≪デボーションの友≫2022/8/1-6

2022/8/1(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:1-5 聖歌(総)653  聖歌 608

 パウロは「あなたがたにこれだけは聞いておきたい。」と語り「あなたがたが霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。」即ち、「あなた方が救いの恵みに与ったのは律法を行ったからか、それとも福音の言葉を聞いて従ったからか」と問いかける。ガラテヤは異邦の地であるから、ガラテヤ人は異邦人―イスラエルの国籍とは無縁で、約束の契約についてはよそ者―であった。従って彼らが霊を受けた―救いに与ったのは福音の言葉を聞いて従ったからであった。

 私たちが救いに与るのは、与り続けるのは聖霊の恵みの内にあって福音にとどまり続けることによるのである。

2022/8/2(火) 担当 ラウジー満世師 創世記12:4-9 賛美 聖歌(総)469 聖歌456

 アブラムは主の呼びかけに応えて甥のロトと共に出かけて行った。アブラムと妻サライには高齢であることも、知らない土地であることも旅立ちを妨げるものではなかった。彼らがカナンの地に入るとシェケムのモレの樫の木のある場所において神が再度アブラムに語り掛けられた。既にカナン人が生活しているこの土地を神はアブラムの子孫に与えると約束なさった。ここでもアブラムがいまだ見ていない遠い将来の約束を信じるように導かれている。アブラム自身の目で、いつかこの約束の成就することを見ることが出来ない内容であったが、アブラムはその言葉を受け取り、信じ、その応答として祭壇を築いた。礼拝をささげたのである。

 約束の成就を確かめてからではなく、約束をいただいたときに信仰によってその完成を見、礼拝をささげる。神からの恵みに対しての応答は礼拝である。礼拝を通して神の御名を呼び、御名を高く掲げて畏れ敬っている。恵みを受けた時は感謝をささげるにとどまらず、神を敬い、礼拝しよう。

2022/8/3(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:1-5 聖歌(総)512  聖歌494

 パウロは「霊で始めたのに、今、肉で仕上げようとするのですか。」と問いかける。ガラテヤ人が救いの恵みに与ったのは「霊で始めた」即ち、パウロが伝えた福音の言葉を信じる信仰によってであった。今、律法主義者が持ち込んだ異なる福音に惑わされて律法を行うことを救いの条件とすることは恵みから落ちることであり、救いを失うことであった。律法の行いは自分の義を確立し、傲慢になり、神の恵みを退けるからである。本書においてパウロは「しかし、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実によるのだということを知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の行いによってではなく、キリストの真実によって義としていただくためです。なぜなら、律法の行いによっては、誰一人として義とされないからです。」(ガラ 2:16)と述べている。ローマの信徒への手紙においては「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」(ロマ1:16-17新共同訳)と述べている。福音に固く立ち信仰を全うしょう。

2022/8/4(木)担当 ラウジー満世師 創世記12:10-20 賛美 聖歌(総)516 聖歌498

 カナンにやってきてそこで祭壇を築いて神を礼拝したアブラムとその家族であったが、そこで飢饉が起こる。聖書においてしばしば飢饉について述べられているが、これは人々の生死の問題であった。死を免れるためにアブラムはファラオという大きな権力者が治めるエジプトへ下った。寄留者であるアブラムたちの命を脅かし得る新たな存在はファラオであった。エジプト入国前からアブラムはサライに妻ではなく妹と名乗ることによって命を守ろうと告げる。アブラムは知恵を絞って予測される命の危機にいち早く手を打とうとした。サライもそれに無言で同意した。しかしアブラムのこの知恵を用いた策略は信仰者の姿とはかけ離れている。まだアブラムの信仰は神に頼るほど成長していなかったのだろうか。結果的に一族の命は守られたが、ここでは信仰が未熟であったことが現われた。

 相手が権力者であったとしても神は選ばれた者を祝福し、守り、導いてくださる。神との関係に生きる私たちは自分の策略のみに頼るのではなく、まず神を信頼し、神に頼ろう。

2022/8/5(金) 担当 高谷清師 詩 69:6 賛美 聖歌(総)424 聖歌423

 詩人は「神よ、あなたは私の愚かさをご存じです。/私の犯した罪もあなたには隠すことができません。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「詩人は、自分が罪なくして苦難を受けた者ではないことだけでなく、さらに彼が「愚かな行い」と「もろもろの咎」のために神に「打たれた」ことを十分意識している。彼はそれらを全知の神の前に隠せないし、またそのつもりもない。自分の罪を神の前に明らかに告白しなければ、その祈りは純粋ではないだろう。なぜなら、このように自ら告白した罪に対する神の審きを誠実に肯定して始めて、神の恵みと助けを願う道が聞かれるからである。195」『ATD旧約聖書註解詩篇中P195-196』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)

と述べている。ヨハネは「私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。」(1ヨハ 1:9)と述べている。神に自らの罪を告白し、悔い改めることは神の恵みに与る第一歩である。

2022/8/6(土) 担当 高谷清師 マタ 6:12 賛美 聖歌(総)25 聖歌85  主イエスは「我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく/我らの罪をも赦したま。」と祈るように教えておられる。マタイによる福音書18章には主君に一万タラントンの負債を赦してもらったにもかかわらず自分に百デナリオンの負債のある仲間を赦さなかった家来の物語が記されている。我らに罪をおかす者を我らが赦す原資は私たちが決して払い得ない罪を御子イエスが自らの血をもって、命をもって赦してくださったことである。「神は愛です」「神はあなたを愛しておられます」とか「神はあなたの癒し主です」「神はあなたを癒されます」とかいう言葉にはアーメンと唱えても、傲慢で自らの罪を認めない者にはキリストの十字架は分からず、キリストの十字架が分からない者には神の赦しの恵みは分からず、神の赦しの恵み側帰らない者には他者を赦すことはできないのである。神の前にへりくだって自らに罪を悔い改め、十字架を仰いで神の赦しに与り、他者を赦すものとなろう。