≪デボーションの友≫ 2022/8/8-13

2022/8/8(月) 担当 高谷清師 ガラ 3:1-5 聖歌(総)569  聖歌 545

 パウロは「あれほどのことを体験したのは、無駄だったのでしょうか。」と問う。この箇所について佐竹明師は

「協会訳(口語訳)は「あれほど大きな経験をしたことは」と訳す。しかし、原文では経験の対象の「大きさ」は述べられているが、経験そのものの「大きさ」は述べられていない。大きな事柄を経験すれば,その経験自体も「大きな経験」となる可健性は十分にあるから、一概に,協会訳は具合が悪いとはいえない。しかし、協会訳は、パウロは信仰を人間の異常な体験に依存するものとしてとらえているという誤解を与えかねない。確かに前後の文脈でも、バウロがガラテアの人々の入信時の体験に訴えて論議を進めているが、それらがいずれも受身の角度から、控え目に問題にされているに過ぎない点に注意したい。」【現代新約注解金書 ガラテア人への手紙P256

と述べておられる。確かに、信仰は人間の能力をはるかに超えた全能者なる神に依存するものであるが故に、人間の常識を超えた体験を与えられることもあることは否定できない。必要とあればそれをなさるであろう。一方で天地宇宙を創造し、これに秩序を与えられたのは神ご自身である。神はそれに従って天地宇宙を導かれるであろう。信仰は日常的なものである。いたずらに異常体験を追い求めることは真理の道を踏み外す危険を招く。

2022/8/9(火) 担当 ラウジー満世師 創世記12:10-20 賛美 聖歌(総)443 聖歌441

 エジプトから旅立った時、アブラムとロトは多くの持ち物を所有するほど祝福されていた。しかしこの祝福のゆえに彼らが共に旅することが困難になった。命にも直結する土地問題で彼らは対立することになった。両者が財産を維持しつつ互いに暮らしていくために、別々の土地へと進んで行くことになった。アブラムは家長としてロトに土地を選ばせた。これは豊かな土地であったがアブラムはそれらを惜しむことなく、前進していった。ロトは自分の好きな場所を選ぶ特権を与えられて、自分の目に映る最善の土地を選んだ。その土地は自分たちを豊かにしたエジプトのように素晴らしい土地であった。見渡す限り豊かに潤った最高の土地を手に入れたロトは平和にアブラムのもとから離れていった。

 人間は何かを選択するとき、選択肢の中から最上のものを選ぼうと真剣に精査する。様々な基準を考慮しながら自分の目に良しと映るものを選ぶ。しかし喜び勇んでロトが入った土地は邪悪な人々でいっぱいで、罪がはびこっていた。求めるべきは豊かな生活ではなく、神を畏れる生活である。

2022/8/10(水) 担当 高谷清師 ガラ 3:1-5 聖歌(総)562  聖歌540

 パウロは再び「神があなたがたに霊を授け、あなたがたの間で奇跡を行われたのは、あなたがたが律法を行ったからですか、それとも信仰に聞き従ったからですか。」と問う。その答えはもちろん信仰に聞き従ったからである。そのことを創世記のみ言葉を引用しつつ、信仰によって生きる道こそ、救いの道であることを以下に解き明かしていくのである。私たちの救いの道は律法の行いにあるのではなく、福音を信じる信仰の道にある。

2022/8/11(木)担当 ラウジー満世師 創世記12:10-20 賛美 聖歌(総)633 聖歌595

 ロトが自分の判断に頼って目に映る豊かな土地を選んだ後、アブラムは神の言葉に従って目を上げ、見渡す限りの土地と子孫を与えられた。この約束はすぐに実現するものではなく、何世代も先の子孫において実現されるものであった。アブラムはこの時、甥であるロトとの争いを避け、神の言葉に従って神に与えられるものを喜び、そして導きに従って天幕を移したその土地で再び祭壇を築いて神と共に生きる共同体であることを確認し続けた。

 私たちは現前の状況をパッと見て表面的な情報に基づいて自分の主観だけに頼って大切な判断をすることがある。しかし私たちを創り、生涯を御手の中に握り、導いておられる主が最善を与えて下さることを信じて感謝する者としての正しい判断は、主の導きに従うことである。祝福される時も驕らず、苦境が続く時も神を疑わず、御心のままに歩ませていただくことを願い、実践しよう。

2022/8/12(金) 担当 高谷清師 詩 69:7-13 賛美 聖歌(総)232 聖歌 256

 自らの愚かさと犯した罪を神の前に告白した詩人は兄弟にとっては見知らぬ者/同じ母の子らにとってはよそ者とされた。また彼が断食し、自分のことで泣けばそのことでそしられ、粗布を衣とすれば彼らの話の種となった。町の門に座る人々は彼を噂の的とし、酒に酔った者は嘲り歌った。このような状況下に在って詩人は「私はあなたのゆえにそしられ/顔は恥辱に覆われています。」と訴える。そして「わが主、万軍の主よ/あなたに望みを置く人が/私のことで恥じ入ることがありませんように。/イスラエルの神よ/あなたを尋ね求める人が私のことで/屈辱を受けることがありませんように。」と祈る。詩編51篇の詠者は「神の求めるいけにえは砕かれた霊。/神よ、砕かれ悔いる心をあなたは侮りません。」(詩 51:19)と詠っている。また、ヤコブは「信仰による祈りは、弱っている人を救い、主はその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯しているのであれば、主は赦してくださいます。それゆえ、癒やされるように、互いに罪を告白し、互いのために祈りなさい。正しい人の執り成しは、大いに力があり、効果があります。」(ヤコ 5:15-16)と述べている。四面楚歌の中におかれるとしても堅く信仰に立ち、祈り続けよう。

2022/8/13(土) 担当 高谷清師 マタ 6:13 賛美 聖歌(総)319 聖歌332  主が弟子たちに教えられた祈りの第六は「我らをこころみに遭わせず、悪より救い出したまえ」である。大悟の祈りにおいて我らの罪が許されたならば、神に対してそれ以上の求めはないのではないだろうか。罪の赦しは私たちを滅びから解放し、永遠の命を得させる。罪の赦し、それは実に最高の賜物であり、十全な賜物である。しかし、罪の赦しを与えられ、サタンから解放された者には大きな危険が伴う。主は次のように警告しておられる。「汚れた霊は、人から出て行くと、休む場所を求めて水のない所をうろつくが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。帰ってみると、空き家になっており、掃除をして、飾り付けがしてあった。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この邪悪な時代もそのようになる。」(マタイ12:43-45)サタンは罪赦された者を再び餌食にしょうと、虎視眈々と狙っているのである。それ故、片時も主から離れることなく歩むことが求められるのである。