2017/10/30-11-4

2017/10/30(月) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:22-27 賛美 新聖歌 369
 イエスが大麦のパン五つと魚二匹とによって男たちだけでおおよそ五千人に食物を与え満腹させられた奇跡を体験した群衆は、翌日再びその場所にやってきた。しかし、イエスも弟子たちもそこにいないと知った群衆は小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけた。主は「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(ルカ 11:9-10)と教えておられる。神は探し求める者に対して、必ずご自身をあらわしてくださる。それが如何なる雑踏の中においてであっても、いかなる辺境の地にあっても。神を求め続けよう。

2017/10/31(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書12:14-17  賛美 新聖歌251
 神がイスラエルと近隣諸国に対して行われることが記されている。ここでは神がイスラエルに与えた土地を奪い取る近隣諸国民である異邦人と神の民ユダヤ人が等しく神に抜き取られ、再び元の土地に連れ帰られると言われる。なぜ神が御自分の民とその他の民を同じように扱われるのかと驚く。ここで神は回復の条件としてすべての民が偶像礼拝を離れて主に従うことを求められている。神はすべての人にご自身だけを神として受け入れ、従うならば回復してくださると約束された。
 神の選びの民であることが神に赦される条件ではない。時代を超え、地域を越え、すべての人が天地を造られた真の神を信じ、受け入れ、従うならばその出身や時代に関わりなく、神に赦され、導かれる。常に信仰にとどまり続けよう。

2017/11/1(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 6:22-27  賛美 新聖歌 201
 イエスを見つけた群衆が「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と問うたのに対しイエスは「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」と言い、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言われた。群集がイエスを探したのはパンを食べて満腹したからであった。イエスは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタ 7:7-8)と語っておられる。たしかに私たちは主に祈り求め、世における必要を満たされ、癒しを体験してきた。ある人々はこれを殊更に強調し、イエスを肉欲充足の手段、自らの奴隷、打出の小槌としょうとする。しかし私たちが真に求めるべきもの、そしてイエスが私たちに与えられるのは永遠の命に至る食べ物である。

2017/11/2(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書13:1-13  賛美 新聖歌396
 ここでエレミヤは言葉だけでなく行動によっても神のメッセージを伝える。彼が身に着けた麻の帯は神とイスラエルの近い関係を示す物であった。ユーフラテスの岩の裂け目に帯を隠すことはユダが捕囚を経験することを示しているのであろうか。そうならば、この帯が再び取り出されたときに腐ってしまったようにユダも捕囚によって全く無意味な存在、神を忘れ去り、神から離れたものになってしまうということであろう。この不可避な裁きが宣言され、それは民が逆らい、傲慢であった結果だと言われる。民は全く希望の持てない存在である。
 預言者は希望に満ちた将来だけではなく、不従順な民を目の前にして希望を持てない裁きの現実だけをこのように語ることもあった。この様なメッセージを聞く時、私たちはそれでも神は愛の神であるという私たちに都合のよい言葉を使って裁きの厳しさとそこまでの状況を作った不従順の罪の深刻さに向き合って悔い改めることを拒否してしまう。時には厳しい言葉にも耳を傾けよう。

2017/11/3(金) 担当 高谷清師  詩編35:4-10 賛美 新聖歌 165
 ダビデは「彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張り/わたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。どうか、思わぬ時に破滅が臨み/彼らが自ら張った網に掛かり/破滅に落ちますように。」と祈る。ダビデは、そのうちに悪がないにもかかわらず、サウルの妬みによってダビデを滅ぼすために張られた網と掘られた穴から、神によって守られ、助けられた。その恵みに対して『わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶものはありません。貧しい人を強い者から/貧しく乏しい人を搾取する者から/助け出してくださいます。」』と詠い、神を賛美し、栄光を主に帰している。私たちが危機に直面する時、私たちは祈る。そして主の導きに従って行動し、危機を脱する。その時、行動したのは自分であると考え、すべての栄光を主に帰さないことがある。しかし、導かれたのは主である。栄光のすべてを主に帰すものとなりたい。

2017/11/4(土)担当 高谷由紀子師 ヘブ 12:1-3 新聖歌 281
 著者は11章において偉大な信仰の先達について述べました。更に私たちには、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった、信仰の創始者また完成者であるイエスが与えられているのです。それを受けて「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と語りかけています。著者はキリスト者の歩みを競技者にたとえています。競技者は身にまとわりつく不要なものを捨て、障害物を乗り越えて忍耐強く、只管ゴールを目指します。私たちも約束されている御国を目指し、それにふさわしくない一切のものを捨て、只管歩み続けましょう。”,,708″