2020/5/18-23

 2020/5/18(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 388

 イエスは天に帰って行かれるのを前にして世に残して世に遣わされる弟子たちと共同体にどうしても語っておかなければならない教えを語り、弟子たちと共同体のために執り成しの祈りを献げられた後、神から与えられた使命の完遂のために立って行かれる。最後の晩餐の席を立ってキドロンの谷の向こう、ゲッセマネの園へと行かれた。福音書記者は「イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた」と記している。そこにユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来たのである。彼らは松明やともし火や武器を手にしていた。イエスが進み出て、「だれを捜しているのか」と言われると彼らは「ナザレのイエスだ」と答えた。それに対してイエスは「わたしである」と言われた。ヨハネは「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ」と記している。これらのことから私たちが学ぶのはイエスの十字架は全く自発的なものであったということである。パウロは「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ロマ 5: 8)と述べている。神に感謝しょう。

 

2020/5/19(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:2-4 賛美 新聖歌165

 エドムの罪は傲慢であった。それは岩の裂け目である自然の要塞に住み、どんな敵もエドムを倒すことが出来ないとうぬぼれであり、神をも侮るほどであった。神を恐れない者を神は見逃されない。人間がどれほど力を持っていると考えていても、神は比類なき力をもっておられる。そして傲慢なエドムに対して、たとえ彼らが鷲のように高く舞い上がっても、必ず彼らを引き降ろすと言われる。ほかの民族や国と比べて力を持っていたとしても、神の前には弱く、小さな存在である。神は傲慢なものを引きずりおろされる。

 神との契約の中に生きていない人であっても、神の被造物であることに変わりはない。被造物が傲慢のゆえに自分を神よりも高い場所に置こうとするならば、神はまさに彼らの罪である傲慢を砕く方法で裁きをなさる。すべて造られた者は主を崇め、拝するのであり、自らを高めるならば罪であり、神の裁きを逃れない。

 

2020/5/20(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:1-11 賛美 新聖歌 458

 ヨハネは「ユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。」と記し、更に「イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。」と記している。ユダはイエスを捕らえようとする者たちの手引きをし、またその場に立ち会っていたのである。このユダは先刻までイエスの弟子としてイエスと寝食を共にし、親しく教えと薫陶を受け、共同体の中で重要な任務を委ねられていた者である。しかしヨハネは「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」(ヨハ 13: 27)と記している。パウロもまた愛弟子テモテに対して「わたしの子テモテ、あなたについて以前預言されたことに従って、この命令を与えます。その預言に力づけられ、雄々しく戦いなさい、信仰と正しい良心とを持って。ある人々は正しい良心を捨て、その信仰は挫折してしまいました。その中には、ヒメナイとアレクサンドロがいます。わたしは、神を冒涜してはならないことを学ばせるために、彼らをサタンに引き渡しました。」(?テモ1:18-20)と書き送っている。常に信仰と正しい良心とを持って神と交わり、健全な歩みを続けよう。

 

2020/5/21(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:5-9節  賛美 新聖歌2

 エドムに対する神の厳しい裁きの宣言は止まらない。自然の要塞都市を誇っていたエドムに侵略者がなだれ込み、エドムの財産をすべて盗む。あらゆる富を奪い取られたエドムに同情し、助ける者はいない。今や敵ばかりではなく、友好関係にあった国々までがエドムを見捨てる。さらに追い打ちをかけるように誇りとしてきた知恵も神によって滅ぼされ、勇士も皆殺される。

 神が罪を指摘して厳しい裁きを宣言されるとき、それは徹底したものである。すべての人間は神によって作られ、神を知ることが出来る。それにもかかわらず、神など存在しないかのように自らに誇りを持ち、どこまでも高慢になるならば神はそれを裁かれる。私たちも自分を誇るのではなく、神を崇め、神を礼拝しよう。

 

2020/5/22(金) 担当 高谷清師 詩 52:3-6  賛美 聖歌 273

 この詩には「【指揮者によって。マスキール。ダビデの詩。エドム人ドエグがサウルのもとに来て、「ダビデがアヒメレクの家に来た」と告げたとき。】」と表題がつけられている。サムエル記上2122章の記事によるとサウルは妬みからダビデを殺害しょうと図り、それを知ったダビデが祭司アヒメレクのもとに立ち寄ってパンと剣を求め、それに応じてアヒメレクは供えのパンとゴリアトの剣をあたえた。それを知ったサウルはエドム人ドエグを用いて亜麻布のエフォドを身に着けた者八十五人を殺し、また祭司の町ノブを剣で撃ち、男も女も、子供も乳飲み子も、牛もろばも羊も剣にかけた。このような事件を背景としながら詩人は「力ある者よ、なぜ悪事を誇るのか。神の慈しみの絶えることはないがお前の考えることは破滅をもたらす。舌は刃物のように鋭く、人を欺く。お前は善よりも悪を/正しい言葉よりもうそを好み、人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む。」と詠う。「力ある者」、権力者は、神を力と頼まず、自分の莫大な富により頼んでいる。富と権力が増した時、人はそれに依り頼み、神に依り頼むことを忘れる。それは滅びへの道である。詩編62篇には「民よ、どのような時にも神に信頼し/御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩 62:9)と記されている。順境の時にも逆境の時にも常に神に依り頼むことこそ命への道である。

 

2020/5/23(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 9:57-62 賛美 新聖歌 372

 この箇所には主に従おうとした三人の人について記されています。最初の人はイエスに対して「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。この人に対してイエスは「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」と答えられました。第二番目の人はイエスの方から「わたしに従いなさい」と語りかけられました。これに対してその人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。するとイエスは「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい。」と言われました。三番目の人は「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言いました。するとイエスは「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。先にイエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ 9:23)と教えられました。イエスに従おうとする者は自らを聖別することが求められるのです。