2020/5/11-16

 2020/5/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:24 賛美 新聖歌 343

 イエスは「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」と祈られる。イエスはご自身に託された贖いの御業を成し遂げて父なる神の御許に帰られる。しかし「わたしに与えてくださった人々」は世に残されている。世に残されている信仰者について「わたしのいる所に、共におらせてください」と言われるのである。17:3においてイエスは「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」と語られた。神とキリストを知る者は世に在ってもキリストと共にあるのである。キリストと共にある者は、キリストが受肉以前に持っておられた栄光―愛・命・力・富・・・・・あらゆる善きものに与るのである。
 
2020/5/12(火) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:1  賛美 新聖歌38
 オバデヤ書は唐突に神の言葉の宣言から始まる。一般的に預言書の冒頭には数行を費やして預言者が紹介される。しかしこの預言者について知ることが出来るのはただ名前だけである。このきわめて断片的な情報は読む者の興味を掻き立てて、この預言者の人となりや出身地に対する想像を引き出す。しかし「主のしもべ」を意味する「オバデヤ」が一個人の名前として理解できるのかどうかも定かではない。
 私たちが自然に興味を持つのはこの預言者は誰かということである。しかしこのオバデヤ書はその問いについては一切沈黙して答えない。ここで私たちは神の言葉を聞くときの有り様を考えさせられる。誰が語っていようと、最終的に告げられるのは特定の一個人の思想ではなく、神の言葉である。聖書を読むときに神の言葉を聞くのだという基本的な姿勢と理解をもって向き合おう。
 

2020/5/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:25-26 賛美 新聖歌 190

 イエスは「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」と祈られる。イエスが「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と語られた時、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言ったのに対しイエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハ 14:7-10参照)と語っておられる。世に来られたイエスの働きは御名を知らせることであった。更にイエスは「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ16:13)と語っておられる。世を去られたイエスは聖霊によって真理をことごとく悟らせてくださるのである。日々祈りによって神と交わり、御名を知り、キリストの内に生きよう。
 
2020/5/14(木) 担当 ラウジー満世師 オバデヤ書1:1  賛美 新聖歌166
 オバデヤの預言の大半はエドムに向けられる。エドムはイスラエルの隣国で、約束の地に定住して以来、王国時代を通じてしばしば両国は敵対してきた。またエドムはヤコブの兄弟エサウの子孫でもあり、イスラエルとは血縁関係にあった。それにもかかわらず、エルサレムが滅ぼされた時、エドムはそれを喜び、嘲笑した。このように歴史的にイスラエルと対立してきたエドム人の特質は「知恵」でもあった。
 多くの預言書は神と共に歩んできた神の民イスラエルに向けた言葉が中心になっているが、オバデヤ書は最初から血縁関係はあるとはいえやはり異邦人であったエドムに向けられている。神はこの民にも敵対して立ち上がられる。それは神の気まぐれによって起こるのではなく、明確な理由がある。世界の創造者である神は世界を統治なさる神である。すべてが神の御手の中にあることを覚えよう。
 

2020/5/15(金) 担当 高谷清師 詩 51:20-21  賛美 新聖歌 225

 詩人は「御旨のままにシオンを恵み/エルサレムの城壁を築いてください。そのときには、正しいいけにえも/焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれ/そのときには、あなたの祭壇に/雄牛がささげられるでしょう。」と詠う。月本昭男師は「末尾の二節は、エルサレム(シオン)の再建を願い、供犠の再開を展望する編者による二次的付加である。」『詩編の思想と信仰?P24』新教出版社2011、)と述べておられる。多くの注解者や翻訳者も文言は異にするが、同じような見解をとっておられる。
 献げ物について創世記は「時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。」(創 4:3-5)と述べている。また、イエスは「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタ 5:23-24)と教えておられる。神に受け入れられる礼拝―それは神と人との正しい関係が構築された時にのみ、受け入れられる。悔い改めと信仰によって神の前に出よう。
 

2020/5/16(土) 担当 高谷由紀子師 ?テモ3:14-17 賛美 新聖歌 316

 テモテは敬虔なキリスト者であった祖母ロイスと母エウニケから聖書の言葉を聞き、教えられて育ちました。神の言葉で養われて立派な伝道者に育ったのです。この聖書についてパウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」と述べています。また詩編には「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩 119:105)と詠われています。まことに、聖書は神の霊の導きのもとに書かれた私の道の光、わたしの歩みを照らす灯です。日々聖書に親しみ、御言葉の導きの内を歩みましょう。