2020/5/4-9

 2020/5/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:16-19 賛美 新聖歌 434

 イエスは「わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。」と祈られる。イエスが人間の罪のためにご自身を捧げられること―人間の罪を身に負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださること―によって、イエスを信じる弟子たちは罪の世から解き放たれ、世に属するものではなく、神に属するものとされたのである。イエスは神のみもとに帰られるが、弟子たちは世に残ったのである。従ってイエスを信じ、イエスの贖いの御業によって神のものとされた者―すべてのキリスト者―は世に遣わされた者である。パウロは「兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(フィリ 4:8)と述べている。遣わされた者にふさわしく歩もう。
 
2020/5/5(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:11-12  賛美 新聖歌299
 「その日には」という書き出しによって、アモスの生きていた王国時代を超えてはるか先、王国も滅ぼされるさらにその先の時代であり終わりの時に神がなさることが記されている。アモスの時代に国として存在していたイスラルの北と南の王国はいずれ廃墟となる。人々の希望はそこで潰えるように見える。しかしそのような廃墟となった国を見ながら、人間の限界を超えて神は廃墟を復興させられると語られる。時代や人間の限界を超えて神の支配は現される。神の力が時間的にも空間的にも無限であることが示される。このような回復はただ神によってのみ成し遂げられる。
 アモスの時代の罪深い民に対して神は厳しい言葉を語り、滅びを宣言されたが、それは彼らに対する愛を失われたからではない。神と共に歩みながら罪を犯し続ける人々を悔い改めに導くためであった。しかし人々は聞く耳を持たず、滅びる。そんな時にも神の主権は脅かされることがない。神は廃墟を復興させ、神の民を再び立て直される。ただ神が彼らを愛し、彼らを導かれたからである。どんな時にも神のゆるぎない力がある。そこに目を向けよう。
 

2020/5/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:20-23 賛美 新聖歌 209

 これまで祈りの対象とされていたのはイエスの直弟子に限られていたが、20節以降は「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」―教会―に拡大されている。その祈りの内容は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」ということである。イエスは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ 13: 34)、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハ 15:9-10)と教えられた。またパウロは「平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。」(エフェ 4:3)と述べている。イエスの求められる教会は、神と聖徒、聖徒と聖徒が聖霊によって結ばれ、愛の交わりに生きる教会であり、終末の時まで続くのである。

 
2020/5/7(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書9:13-15  賛美 新聖歌302
 アモス書の締めくくりには再び終わりの時の事が語られる。それは8:11-12とは対照的な回復と救いの預言である。ここで語られる実りは考えられる以上に豊かで、ただ神の業としてのみ可能である。創造者である主が終わりの時にご自身の御心によって、ご自身の御業として豊かな実りをもたらし、イスラエルの人々をその豊かな実りが取り戻された土地に住むように連れ帰り、彼らに町を再建させる。彼らは再び約束の地に根付き、決してそこから再び引き抜かれることはないという。
 アモス書の最後に語られるこの終わりの日の回復は、ただ神の主導によってなされる。そこには神が厳しい裁きを下さねばならないほど罪深かったこの民に対する神の愛があふれている。終わりの日に世を支配なさるのは神であり、そこには民に対する神の愛があふれる。私たちもこの約束をしっかりと握りながら、今、神と共に一歩一歩前進しよう。
 
2020/5/8(金) 担当 高谷清師 詩 51:18-19  賛美 聖歌 89
 ダビデは「もしいけにえがあなたに喜ばれ/焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら/わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません。」と詠う。「それゆえ、わたしは大いなる集会で/あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り/主を尋ね求める人は主を賛美します。いつまでも健やかな命が与えられますように。」(詩 22:26-27)と詠われているように、犠牲と俸げ物は旧約の時代の礼拝の重要な要素であった。しかし主の「万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」との命を受けて出陣したサウルが、羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、それらを携えてサムエルのもとに帰り「あなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」と言い訳をした時サムエルは「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(?サム 15: 22)と語っている。また、イエス様は「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハ 4:24)と教えておられる。神が求められる礼拝は形式的な献げ物ではなく、霊と真理による、真実な礼拝である。
 

2020/5/9(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 6:1-4 賛美 新聖歌 346

 この箇所でイエス様は善行について教えておられます。イエス様は「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」と言われます。偽善者たちは人からほめられようと会堂や街角で善行を行います。そのような善行は人々からの賞賛を受けます。しかし人々からの賞賛を受けてしまった彼らは、神様からの報いを受ける余地が残されていないのです。人々からの賞賛を受けることのない人目につかない、隠れたところで行われる善行に対しては神御自身が豊かに報いてくださるのです。