2018/5/14-19

2018/5/14(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 247
 ヨハネは7:30に続いて「イエスの時がまだ来ていなかったからである」と述べている。この箇所について斎藤正彦師は「ユダヤの最も大切な祭りの目、多くの礼拝者の集まる神殿の婦人の庭のさいせん箱のそばで語られたこの一言によって、イエスは直ちに捕えられても不思議ではなかった。しかし福音書記者は、ここでかれが直ちに捕えられなかった理由を、『イエスの時がまだきていなかった』。神の子の受難の、神によって定められた時がまだ来ておらず、誰も神の計画にさからって行動することはできなかったからであると説明することによって、このテキストを締め括るのである。」と述べておられる。(説教者のための聖書講解No30P14日本基督教団出版局1980)主イエスは「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」(マタ 10:29)と語っておられる。悪を含め、すべては神のみ手の中にあり、神の許しなしには何事も起こらないのである。愛の御手の中にあることを感謝しょう。

2018/5/15(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:12-15 賛美 新聖歌166
 周辺諸国からエルサレムに来た王の使者たちに語ったと同じことを、同じように軛を背負いながらユダの王ゼデキヤにも語っている。エレミヤのメッセージは神から託された言葉であり、それは誰を目の前にしても変わらない。ユダの民が命を保つための唯一の方法はバビロンの王に仕えることである。このことはユダの民にとっては不満であっただろう。それ故に偽預言者達は人びとの思いに迎合してバビロンの王に仕えてはならないと語る。ゼデキヤ王にとってもエレミヤ以外の人びとの意見の方が好ましかった。しかしエレミヤは好ましい意見に飛びついて行動を起こすのではなく、偽預言を見抜き、滅びの道を歩むことはしないように呼びかける。
 神の御心を受け取ってそれを語る時、神のご計画が時代の潮流と必ずしも一致しているわけではない。そのような時に時代の勢いに流されることなく、また地位ある人の前だからと言って恐れてメッセージを変えるのではなく、祈りと御言葉を通して神の御心を聞き分け、主に信頼し、人を恐れず、真の言葉を語れるよう、主に祈り求めよう。

2018/5/16(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:21-24 賛美 新聖歌 265
 イエスは再び口を開き「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」と語られる。これを聞いたユダヤ人たちは、イエスの言葉を理解できない。彼らは下のものに属しており、イエスは上のものに属しておられる、ユダヤ人たちは世に属しているが、イエスは世に属してはおられないからである。イエスは「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」と語られる。『わたしはある』と言う語を口語訳聖書は「わたしがそういう者である」と訳し、新改訳聖書(2017年版)は「わたしはある」と訳している。フランシスコ会訳聖書は『わたしはある』と訳し「出エジプト3:14の『わたしはあるものである』という旧約聖書的へブライ語表現(「ヤーウェ」という神の名に関速する表現)に基づくものであり、イエズスの神性を表わす固有名詞のようなものである。」との注釈を付している。
 人が、イエスが神であられることを信じないなら、イエスの命に与ることは出来ない。主は「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」(マコ 16:16)と宣告しておられる。固く信仰に立って歩もう。

2018/5/17(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:16-22 賛美 新聖歌340
 さらにエレミヤは祭司たちと民のすべてに向けて語る。何度も同じメッセージを、あらゆる人々にあらゆる機会を捉えて語っている。その際、今まだ神殿と宮殿とエレサムに残っている祭具に言及していることから、既に最初の小規模な捕囚が起こり、ユダの国の危機的状況が目の前にあることを、エレミヤは冷静に認識し、対処していることが分かる。バビロンによる略奪は続くという預言は将来の先行きが決して安泰ではないことを感じ取っている人々に歓迎されるはずがないばかりか、敵意の的となるだろう。それでもエレミヤは危機感をもって真剣に語り続けた。人々の目には侵略者バビロンに服従することがあり得ない選択に見えたけれども、エレミヤは確信をもってこれを勧めた。
 エレミヤが大胆にこれを勧めることができたのは、神との親しい関係において神の言葉を聞き分けていたからである。加えて、神に従ってバビロンに仕えるならば、たとえそれが人間的に愚かで恐ろしい道に見えても、神がバビロンを用いて守ってくださるという主へのゆるぎない信頼を持っていたからである。主への信頼は危機における振舞いに表れる。

2018/5/18(金) 担当 高谷清師  詩 37:21-22 賛美 新聖歌 340
 ダビデは「主に逆らう者は、借りたものも返さない。主に従う人は憐れんで施す。神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「神はその民に対し豊かに与えられるので、彼らは他の人々に善を施すことができるが、悪しき者らは常に飢えており、その貧しさが彼らを駆り立てて、たばかりと強奪に訴えさせるほどである」 と。(中略)たとえ不信者が、よきものを豊かに手にしているとしても、彼らの貧欲はけっして飽くことなく、何を手に入れようとも、満ち足りることのない海賊のごとく、あちらこちらと強奪して回ることを止めないのである。」と。更に「神の子らが貧しい人々の生活を支え、彼らに対し寛大な施しをするに足るものを持つのはどこからか、そして悪しき者らが絶えず借財し、けっしてそこから抜け出すことができないのはなにゆえか、と問うならば、ダビデはこう答える『前者は神によって祝福されているのに,後者はその呪いによって覆滅されているからである』と。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P466−467新教出版社1970)と述べている。パウロは「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。」(?コリ6:10)と述べている。キリストを信じる者は御国の相続者とされている。

2018/5/19(土)担当 高谷由紀子師 マタ 7:24-27 賛美 新聖歌 316
 これは主が語られた山上の説教と呼ばれる個所の一部分です。ここで主は私たちの人生の二種類の土台について譬えを用いて教えておられます。その一つは砂です。この土台は、雨が降り、川があふれ、風が吹くと崩れてしまうのです。もう一つの土台は岩です。岩を土台としている家はたとえ雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかっても崩れ去ることはありません。
 岩を私たちの人生の土台とするということは、御言葉を聞いて行うことだと言われています。砂を土台とするということは、御言葉を聞いてもそれを行うこと無く忘れてしまい、世のもの―健康・財産・権力・地位など―のうえに人生を築くことです。それは危機に遭遇すると崩れ去るのです。御言葉を聞いたなら、それを心に留め、思い巡らし、実行していくことが大切です。”,,604″