2018/5/7-12

2018/5/7(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:12-20 賛美 新聖歌 231
 イエスは「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。」と語られる。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハ 3:16)と記されているように、神の御子が肉をとってこの世に来てくださったのは、罪を犯し死に定められている人間を愛し、死から救うためであって、審判を行うためではなかった。しかし「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」(ヨハ 3:18)と述べられているように、神が愛によって遣わしてくださった救い主を信じない者は救いに与ることが出来ない、それが裁きである。信仰によってイエスを受け入れよう。

2018/5/8(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書26:20-24 賛美 新聖歌396
 エレミヤと同時代に生きた真の主の預言者ウリヤの死の突然の報告から、エレミヤの命を狙う者は祭司と預言者だけではなかったことが分かる。王もまた耳の痛い、真の神の預言を疎んじ、それを語る預言者を殺そうとしていた。ヨヤキム王のウリヤへの敵意は、エジプトに逃れたウリヤを追跡して連れ戻してまで殺すほどであった。同じ時代に生きていたエレミヤはアヒカムという、ヨシヤ王のもとで大臣を務めていた後見人を通して守られていた。ウリヤもエレミヤも真実の主のことばを語ったが、一人は王の手に堕ち、一人は守られた。これを不公平だと感じるだろうか。客観的にはそうかもしれない。しかし、ウリヤもエレミヤも真の神に仕える中で主の御心によって用いられ、生かされ、また命を落とすことも許されていることを理解していただろう。
 同じ神に同じ時代に同じ場所で仕える人びとでも、預言者個人の生涯はそれぞれ異なる。人間的には不公平であっても、神は一人一人に使命を与え、それを遂行させ、御心の時に召される。他の人と比べて良いか悪いかと考える必要はない。ただ、神の前に誠実に、力の限りに仕えたい。

2018/5/9(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8: 12-20 賛美 新聖歌 344
イエスが「あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」と語られたのに対し、ファリサイ派の人々は「あなたの父はどこにいるのか」と問うた。イエスは「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」とお答えになった。ヨハネは「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(ヨハ 6: 46)と述べている。またフィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うのに対しイエスは「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(14:8)と答えておられる。更に主は「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。」(ヨハ 17: 21)と祈っておられる。人は神を見ることはできない。御子イエスにおいて神を見、知るのである。

2018/5/10(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書27:1-11 賛美 新聖歌343
 ユダの王のもとに近隣諸国王から使者が送られて会議を開いているところにエレミヤは象徴行為と共に預言することを命じられる。これらの国々は共謀してバビロンに反旗を翻そうと画策していたが、主なる神はこのような方法で平和を得るのは神のみ心ではなく、むしろ諸国民をバビロン王の支配下に置くことであると告げられる。バビロンに対する反乱を起こすように勧める者たちは神のみ心を伝えていないという。エレミヤは同じことをユダの王に対しても語るが、特に諸外国の使者に語る時にはイスラエルの神、万軍の主が創造者であるということを強調している。なぜなら周辺諸国もそれぞれ世界を創造したのは神であると考えていたからである。これは真の創造者の言葉であるがゆえにユダのみならず諸国もこの言葉に聞き従わなければならないと示された。
 語る相手によって神はご自身を顕す表現も変えられる。それは聞く人びとが神を知り、理解できるためである。私たちも神の言葉、福音を伝える時に聞く人びとにとって理解できる言葉を用いて語る知恵を求めよう。

2018/5/11(金) 担当 高谷清師  詩 37:20 賛美 新聖歌 449
 ダビデは従う人を虐げ、不法行為によって得た世の繁栄によって傲慢にふるまう者について「主に逆らい敵対する者は必ず滅びる、献げ物の小羊が焼き尽くされて煙となるように。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「悪しき者らがみずからに寄り頼む間に、神は隠れた方法で、彼らを無に帰せしめられる、というのである。彼らを神の敵と呼ぶことによってダピデは、みずからの悪行のゆえに、彼らの頭上に降りかかる神の報復によって、彼らが打ち砕かれるのは、正当なことであると教えている.」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P4661新教出版社1970)と述べている。ヤコブは「御覧なさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません。」(ヤコ 5:4-6)と述べている。罪の快楽をほしいままにしたソドムとゴモラは一夜にして滅ぼされた。神を畏れ、真実に歩もう。

2018/5/12(土)担当 高谷由紀子師 ロマ 1:16-17 賛美 新聖歌 276
 パウロは『福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。』と言っています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」(創 15:6)と記されているとおり、アブラハムが義と認められたのは彼の行いによったのではなく、信仰によったのでした。ダビデは行いによらず、信仰によって義と認められた者の幸いについて「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」(詩 32:1-2)と詠っています。私たちが義とされるのは私たちの罪のために十字架に架かって下さった主を信じる信仰によってだけです。”,,640″