2017/7/31-8/5

2017/7/31(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5:10-18 賛美 新聖歌 320
 再び癒し主に出会った、イエスによって癒された人はユダヤ人たちに「自分をいやしたのはイエスだ」と告げた。これを聞いたユダヤ人たちはイエスが安息日に癒しの業を行われたことによってイエスを迫害し始めた。イエスは彼らに「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」と答えられた。「わたしの父は今もなお働いておられる。」と言われた言葉についてカルヴァンは「神はなにも、自分が創造した世界をその崇高な徳によって支え、その配剤を通じて統治し、善意によって維持し、思うがままに、天においても地においても、すべてのものを秩序づけることを、やめたのではないのだ。だから、世の創造は六日で成就されたが、その管理と支配はいつまでもつづいているのである。神はたえず世の秩序を保ち、維持することに専念しているのだ。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書上新教出版社1967P162)と述べている。詩編も「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない。」(詩121: 4)と述べている。私たちの神は休むことなく働いておられる。いかなる時にも私たちの求めに応えてくださるお方である。

2017/8/1(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書7:1-11  賛美 新聖歌390
 神からの新たな言葉が与えられた。26章にもよく似たことばが記されており、そこからこの言葉はエホヤキム王の即位の際に語られたと分かる。それは人々が礼拝のために集まってきた特別な祭りの日であった。このことばが語られた時、神の御心に適う王であったヨシヤは既に死に、ヨシヤの宗教改革の実はすっかり消え失せ、ヨシヤ王の後に即位したエホアハズはエジプトによって廃位させられ、エジプトの操り人形としての傀儡王エホヤキムが即位したのである。実質エジプトによって支配されていたエルサレムとユダの人々は希望のない状況に生きていた。ヨシヤ王時代に見たわずかな希望はあっという間に消え失せた。この状況においてエルサレムの民は現代の私たちが「苦しい時の神頼み」というのと同様に、神にすがったようである。彼らは「主の神殿」と唱えながらも深く神を知ることなく、理解しないままに、とにかく望みをかけたのは事実であったようだ。この民に対して、神はエレミヤを通してどのように語られただろうか。本当の意味で「神に頼る」とはどういうことなのだろうか。

2017/8/2(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 5:10-18 賛美 新聖歌 251
 安息日に行いてカルヴァンは「安息日を守ることは、神のわざの流れを中断したり、さまたげたりすることであるどころか、かえって神のわざにだけ場所をゆずりわたすことである、と。それというのも、律法がひとびとに、自分のわざをやめるよう命じているのは、どうしてか。それは、神のわざを見つめ、自分の考えはすべてうつろに、自由にして、ただ紳のわざに専念するためではないだろうか。だから、この安息の日に、神のわざに自由な流れ、いわば支配権を委ねないひとは、単に律法のいつわりの説明者であるばかりでなく、さらに、律法を無惨にくつがえしていることになる。こう反駁するひとがあるかも知れない。神の例がひとびとに提示されているのは、かれらが第七日目に休むようにするためである、と。解決は容易である。すなわち、ひとびとが神の例にならうのは、神が休んだ点ではなく、むしろ、惑乱にみちたこの世のわざやなりわいをやめて、天の安息をあこがれるためである、と。だから、神の安息は無為ではなく、うちに平和の静けさを宿しているまったい完全性である。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書上新教出版社1967P162)と述べている。神無き世界、空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの中で生活することを余儀なくされている私たちが、すべての世の掟、常識を離れて主の御言葉に耳を傾けることは信仰を維持するために不可欠である。

2017/8/3(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書7:1-4  賛美 新聖歌396
 エレミヤはこの神のことばを語るにあたり、それが「イスラエルの神」の言葉だという。イスラエルの神という呼称を使って、これが彼らと契約を結んだ神であると指摘している。根本的に契約関係が崩れており、それを立て直さなければならないという点が問題となっている。それゆえエレミヤは積極的に「お前たちの道と行いを正せ。」(7:3)と呼びかけている。言葉だけで「主の神殿」三回発音すれば魔術的にすべてがうまくいくという姿勢は全く的外れであると指摘している。神と契約を結んで共に歩む民は、その関係を保つために神から求められている「従う」ことを実行しなければならないのである。それは呪文のように唱える「主の神殿」という言葉によって保たれる関係ではない。
 私たちの信仰生活においても「主の神殿」という呪文のようになっている決まり文句がないだろうか。主の祈りをささげる時、信仰告白をするとき、あるいは祈りの結語の「アーメン」でさえも機械的に唱えてはいないだろうか。神との交わりは深く神を知り、神の教えに従う根本的な関係の構築があって、初めて生きたものとなる。

2017/8/4(金) 担当 高谷清師  詩編33:13.-15 賛美 新聖歌 315
 平穏な信仰生活が続くとき私たちは神への信仰を告白し、「いかなる時にもあなたに信頼します」と言う。しかし一度危機に遭遇するや、地上で頼りになるものを探し求めてと右往左往する。イスラエルの歴史は常にそうであった。彼らは危機に遭遇すると同盟国を探し求めた。そのたびに神は預言者を遣わし、警告を与えられた。ダビデは「王の勝利は兵の数によらず/勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず/兵の数によって救われるのでもない。」と詠い、地上の力に頼ることのむなしさを語っている。そして「見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。彼らの魂を死から救い/飢えから救い、命を得させてくださる。」と詠い、まことに頼ることの出来るお方は主だけであることを言い表している。私たちも危機の時、目に見える地上のものに頼りがちである。しかし、真に頼ることの出来るお方は主だけである。

2017/7/22(土)担当 高谷由紀子師 マタ 7:24-27 賛美 新聖歌316
 家を建てる時に大事なのは土台である。しっかりとした、確固たる土台の上に建てた家は洪水や強風等の災害にも強い。しかし不確かな、脆弱な土台の上に建てた家は、たとえ外観が立派に見たとしても、災害に遭うと倒れてしまう。確かの土台とは、キリストの言葉を聞いて行うことである。主はキリストの言葉を聞いて行う人を賢い人に似ていと言い、キリストの言葉を聞くだけで行わない人を愚かな人に似ていると言っておられる。聞いたみ言葉を行う、賢い人の歩みをしょう。”,,759″