≪デボーションの友≫2022/4/11-16

2022/4/11(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:1-2 賛美 聖歌総合版

 パウロは「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ」と述べる。第三次伝道旅行の際立ち寄ったパウロがガラテヤを立ち去った直後に入り込んだユダヤ教的律法主義に立つ伝道者たちは、パウロが伝えたのとは異なった教えを宣べ伝え、パウロの使徒職を否定したのである。「使徒」とは、主イエスによって召し出され、地上を歩まれた主イエスから親しく教えと訓練を受け、福音の宣教を託された者である。一方、パウロはキリストに従わず、神の教会の迫害者であった。主の証人ステファノの血が流されたときには、彼自身もその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのである。エルサレムにおける教会の迫害に目途を付けたサウロはダマスコの教会を迫害するため、大祭司のダマスコの諸会堂宛ての手紙を携え道を急いでいた時、主か彼にご自身を顕された。パウロは自分が迫害してきた主こそ神であられることを知り、主を信じたのである。主はアナニアに「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」(使徒9:15-16)と語り、主がパウロを使徒としてたてられたことを宣言されたのである。従って、聖書には多くのパウロ書簡が収録されているが、それらすべてを神の言葉として受け入れ、従うべきである。

2022/4/12(火) 担当 ラウジー満世師 創世記1:3-31  賛美 聖歌総合版403

 ここには6日間の創造の業が記されている。1章全体を読むと、「神は言われた。『〇〇あれ。』こうして〇〇があった。…良しとされた。…夕べがあり、朝があった。第〇日の日である。」という繰り返し現れる言い回しによってリズムよく書かれている。混沌で闇に覆われていた地に、神はことばをもって創造の業を行われた。その言葉は実にリズミカルで、秩序の整った言葉であった。そのようにして創られたものは神の目によしとされるものであった。

 神の造られた世界には秩序があり、それは神の基準において良いものである。それらの良い被造物が整い、必要がすべて備えられたときに神は人を造ってくださった。私たちがこの良い被造物の中に生かされていること自体が大きな祝福である。事が思い通りに運ばないとすぐにつぶやきたくなることがあるかもしれない。しかし根本的な存在において神の恵みの中に生かされていることを覚えて感謝しよう。

2022/4/13(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:1-2 聖歌総合版 308

パウロは「イエス・キリストと、この方を死者の中から復活させた父なる神とによって使徒とされたパウロ」と述べている。世の事業所の場合は必要なポジションを策定し、人員を募集する。応募者の中から選考によって採用者を決定し、職員・社員等として任命する。任命された者は任命者の規定に従い、職務を遂行し、事業所に対して責任を持つ。職務遂行に伴い、社会との問題が発生すれば事業所が対応する。宣教者の場合はそうではない。宣教者は神の召しを受け、その召しに応答して立つ。神の働きは多岐にわたるため、同じ使命を託された者たちはその使命を効果的に遂行するためしばしばグループを形成する。しかし、神の前に責任を負って立つのはグループではなく、宣教者自身である。従って宣教者の責務は重大である。責務の重大さを自覚し、主に仕えて行こう。聖徒の場合も同じである。恵みによってキリストの身体の一員とされたことへの感謝をもって仕えて行こう。パウロは「私の愛するきょうだいたち、こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあって無駄でないことを知っているからです。」(1コリ 15:58)と述べている。

2022/4/14(木)担当 ラウジー満世師 創世記1:3-31  賛美 聖歌総合版398

 再び神の創造の御業について考えたい。前に述べたように神の創造の業はとても良いものであった。一日一日、創造されたものをご覧になって、神はそれを良しとされた。空のもの、水の中のもの、地のものがすべて造られ、整えられた舞台に神はご自分にかたどって人を創造された。6日目の創造の業をご覧になった神はその日だけは「極めて良かった。」と述べられた。他の被造物に比べて人が特に神の目に良いものとして創造されたのか、あるいは良く創造された世界に最後に人を置くことによってすべての創造の業が完成したのか、どちらか一方であると言い切ることは難しい。しかし、神の被造物の中でも人間が特別に大切にされ、神との交わりに生きることを許された人間が存在した時に極めて良かったと書かれていることは大きな意味がある。

 神との特別な対話の中に生きるように極めて良く創造されたことをよろこび、この交わりの中にとどまり続けよう。

2022/4/15(金) 担当 高谷清師 詩 67:6-7  賛美 P&W54・主をほめよ32

 詩人は「神よ、もろもろの民が/あなたに感謝を献げますように。/もろもろの民が、こぞって/あなたに感謝を献げますように。地は実りをもたらしました。/神、我らの神が私たちを祝福してくださいます。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「この箇所は収穫の祝福を示す言葉に移行している。この関連でそれはまた、神への感謝を促すことで、ともすればこの世の幸福の中にまどろむ危険から守ってくれる強力な防壁のようなものである。人間はこの世の享楽に没頭しそうになると、神が地上の富の中にこめられた祝福をとり逃がしてしまう。なぜなら、これらの富は、喜びに謙遜が、楽しみに感謝が、また地上の財宝に人間の精神的宗教的な価値が加わってこそ、真の祝福になるからである。その価値は、神への讃美によって神との生きた結びつきをつくる。ただ感謝して神を見上げることが、地上のものにかかずらうことから守ってくれる。そうすれば、神が過ぎゆく富の中に、また富とともに、さらに大きなものを贈ろうとされることが認められるからである。その贈り物とは、神の救いの祝福である。この詩は収穫の感謝をこのように見ている。したがってそれは地上の収穫を越え、神が救いを実行し完成される中で与えられる、一きわ大きな祝福を見上げる結果になる。過ぎゆくものが、永遠にいます方の約束になる。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P172-173』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)

と述べている。与えられた世的、地上的祝福の中に神の御業を見出し、感謝を献げることを忘れてはならない。

2022/4/16(土) 担当 高谷清師 マタ 6:5-8 賛美 聖歌総合版495  聖歌 478  イエスは「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。」と教えておられる。「異邦人」とは主であられる、唯一の神を知らない人々である。彼らは色々な神を作る。アテネの人々は町の至るところに偶像を安置した。それでも安心できず、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえも安置していた。彼らはこの偶像に向って肉の欲望をくどくどと述べ、要求するのである。パウロは彼らの祈りの本質を「彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、地上のことしか考えていません。」(フィリ 3:19)と喝破している。主は聖徒たちの祈りがそのようであってはならないと言われる。天地の主であり、わたしたちをこよなく愛していてくださる神は、願う前からわたしたちに必要なものをご存じであり、私たちの願いにまさって満たしてくださるお方である。私たちの祈りは感謝と讃美である。