≪デボーションの友≫2022/4/18-23

2022/4/18(月) 担当 高谷清師 ガラ 1:3-5 賛美 聖歌総合版 393 聖歌 393

 パウロは「キリストは私たちの父なる神の御心に従って、今の悪の世から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身を献げてくださったのです。」と語る。フィリピの信徒への手紙には「キリストは/神の形でありながら/神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして/僕の形をとり/人間と同じ者になられました。/人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで/それも十字架の死に至るまで/従順でした。」(フィリ 2:6-8)と記している。更にぺトロは「そして自ら、私たちの罪を十字架の上で、その身に負ってくださいました。私たちが罪に死に、義に生きるためです。この方の打ち傷によって、あなたがたは癒やされたのです。」(1ペト 2:24)と述べている。実に、キリストは父なる神のご意志に従い、私たちを罪から解放するため私たちの罪を負って十字架に架かり、死んでくださったのである。キリストの死が、私たちの罪を贖うための死であり、それは父なる神の御意思に従うものでありすべてが愛によるものであることを否定する言説が如何なる権威を冠って流布されようとも、真理ではなくサタンの業である

2022/4/19(火) 担当 ラウジー満世師 創世記2:1-3  賛美 聖歌総合版497

 神は6日間にわたって世界を創造された。この御業が完成した時に神は休まれた。この7日目の休みは後に神を礼拝するための安息日として、再び教えられる。この創世記の冒頭では7日目の休みの日は、神が創造された完全な世界をご覧になり、完全な平安が保たれている中で「休む」日として述べられている。神はこの休み、つまり安息の日を祝福し、聖別された。神ご自身が特別な聖なるものとして取り分けられたのである。この完成された世界はまだ何か不具合があるために私たちが補修し続けなければならないものではない。7日目は神によって特別に取り分けられ、存在し、そしてその中に置かれた人間も憩うことが出来る日なのである。

 私たちは主の御手の中で休みを得ることが出来る。人間にとって必要な休息は世界の初めから与えられていた。いつでも怠けていて構わないと言っているのではない。しかし、何物にも脅かされることのない、神にある安息が私たちには備えられている。安心してこの7日目の安息を得よう。そして安息が与えられていることを知って6日間は委ねられた働きに全力で従事しよう。

2022/4/20(水) 担当 高谷清師 ガラ 1:3-5 聖歌総合版 35  聖歌 93

 パウロは「この神に世々限りなく栄光がありますように」と神を賛美する。この箇所についてカルヴァンは

「突然かれは大いなる感動をもって感謝の祈りに移っている。それはかれらが心をこめて神のこの量り知るべからざる恵みを思い、かくていっそう神に対して謙虚となるためである。「われわれは神のこの憐れみに思いをいたすたびに、直ちにこれによって神に栄光を帰することを思うべきである」というのは、むろん一般的な奨めでもあるけれども」(カルヴァン新約聖書注解Ⅹガラテヤ・エペソ22新教出版社1962)

と記している。神の恵みと祝福を目の当たりにする時、讃美以外にはない。

2022/4/21(木)担当 ラウジー満世師 創世記2:4-7  賛美 聖歌総合版201

 1章の世界全体の創造に続いて、2章では人間に焦点が当てられている。神が創造された世界の中に人が置かれる。神は地の塵で人を形づくられた。人は確かに神の手で形作られ、神の被造物である大地の土によって作られた。そしてこれに続く3章では人は大地に戻っていくと記されている。さらに人間を他の被造物と違って際立たせるものは神がその鼻に吹き込まれた命の息である。この息が吹き込まれたときに人間は生きる者として完成された。人間は体と霊に二分される存在ではない。すべてを含めて全存在として神の御手の中で作られた存在である。

 被造世界全体が完成した後でわざわざ聖書は人間の創造を詳細に伝えている。これにより、人間は神の息を吹き込まれた霊的な存在であり、神との対話に生きる者であるとわかる。今日も祈りと賛美と歩みにおいて神との対話の中に生きよう。

2022/4/22(金) 担当 高谷清師 詩 67:8  賛美聖歌総合版631 聖歌 593

 詩人は「神が私たちを祝福してくださいます。/地の果てに至るまですべての者が/神を畏れ敬いますように。」と詠う。この箇所についてA. ヴァイザーは

「神の祝福は、感謝の働きの原因となる。だがそれは神を恐れる心をも起こす。詩人は神に祝福を願って、地の果てがこの神を恐れるよう促しているが、彼がそれをこれほど緊密な思考回路に持ちこめるのは、神の恩恵と慈しみに関して旧約聖書が示す解釈の顕著な特色であると言えよう。神の慈しみの中に、神の偉大と尊厳が完全に現れている。神の思恵と神の祝福は、人間には理解し難いほど遠く、把握が及ばぬほど強く、人に神を崇めながら恐れさせ、膝をかがめさせる」『ATD旧約聖書註解詩篇中P172』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)

と述べている。

 ぺトロが主イエスの言葉に従い網を降した時、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。「これを見たシモン・ペトロは、イエスの膝元にひれ伏して、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間です」と言った。」(ルカ 5:8)と記されている。これに対してイエスは「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」と言われ、その言葉に従い、ぺトロはゼベダイの子ヤコブとヨハネと共にイエスに従い、イエスの十字架と復活の後、聖霊の注ぎに預かり、使徒として全生涯、主に従ったのである。世的祝福の背後に隠された霊的、永遠の祝福を見逃さないようにしょう。

2022/4/23(土) 担当 高谷清師 マタ 6:9 賛美 聖歌総合版 421 聖歌 420

 イエスは弟子たちに「だから、こう祈りなさい」といって以下に祈りを教えておられる。その第一として「天におられる私たちの父よ」と言って神に呼びかけることを教えておられる。神を父と呼ぶ、それは実に畏れ多いことである。ヨハネは「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。」(ヨハ 1:12-13)と述べている。また、パウロは「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、子としてくださる霊を受けたのです。この霊によって私たちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそが、私たちが神の子どもであることを、私たちの霊と一緒に証ししてくださいます。」(ロマ 8:15-16)と述べている。  イエスを信仰によって受け入れ、子としてくださる霊を与えられた者だけが神を父と呼ぶことが出来るのである。すなわち、祈りはキリストに対する信仰によってのみ、可能である。