2016/10/10-15

2016/10/10(月) 担当 高谷清師  ?ペテ5:5  賛美 新聖歌 372
 謙遜を身につけるべき理由としてぺトロは箴言3:34を引用して「神は、高慢な者を敵とし、/謙遜な者には恵みをお与えになる」と述べる。エバは「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」(創 2:17)と言う神の戒めを知っていたにもかかわらず、蛇の「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」(創 3:4−5)の言葉を聞いた時、高慢になり、神のようになろうとして善悪の知識の木からとって食べ、人類に死を招いた。また主は人の前に自らを高くして人からの栄誉を求める人々について「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタ 6:5-6)と述べておられる。高慢な者―自らを神と等しくしょうとする者は死を招き、人からの栄誉を求める者は神からの報いを失うのである。自らを低くして主に従い、栄光を主に帰しつつ歩もう。

2016/10/11(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書50:1-3 賛美 新聖歌339
 「主はわたしたちを投げ捨て、敵に売り払うことによって、契約を破ってしまった」と訴えたイスラエルの民に対して主は「お前たちの罪によってお前たちは売り渡され、お前たちの背きのために母親(シオン)は追い出されたのだ」と言われる。イスラエルは何度も神に背き、禁じられていた偶像礼拝をし、力の無い死んだ神々に頼り続けた。真に彼らを救い出す力がある主に頼らず、命の無い神々に従ったのである。そのそむきの罪故に国を失い、裁きを受けた。しかし民はなおも自分の非を認めず、神を攻め続けている。
 自分の非を認めず人を責め続けるならばどのような人間関係も成立せず、信頼も崩れていく。イスラエルの神に対する態度も両者の関係を壊すものであった。わたしたちも同じように自分の罪を認めず、神を非難してはいないだろうか。御言葉によって自らを省み、人を罪から救う力を持つ真の神の前に罪を悔い改め、歩もう。

2016/10/12 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ5: 6 賛美 聖歌 391
 この節についてウェイン・A・グルーデム師は「他者の前での謙遜から、ペテロは神の御前での謙遜に移る。『「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい」。「ですから」は、この言明を5節の引用文と結びつける。もし神が高ぶる者たちに敵対されるのなら、神の御前に自らへりくだるのは真の知恵である。他のさまざまの事柄の中で、これは神の知恵にこうべを垂れ、神の摂理の曲折を受け入れ、私たちのすべての心配事を神にまかせることを含む。これはこの人生では個人的な損失を意味するかもしれないが、自ら神
の御前にへりくだることは「神が、ちょうど良い時(新改訳、新共同訳は「かの時」)に、あなたがたを高くしてくださる」ので、常に信者の利益になるのである。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P218いのちのことば社)』と述べておられる。「かの時」とは神が定められた時であって地上に生存中であるか召された後であるかはその人によって異なるであろう。その模範は主イエスである。パウロは主の姿を描いて「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。(ピリ 2:6-9)」と述べている。最後まで謙遜で神によって高くされた主に倣って歩もう。

2016/10/13(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書50: 4-11 賛美 新聖歌238
 主の弟子は朝ごとに神の声を聞き、それに聞き従うが、主の弟子が受けるのは人々からの暴力と嘲りであった。人の目には弱者である。しかし主の弟子にとってはそれは嘲りではなく、それによって彼が辱められることも無かった。それは神が主の弟子と共にあり、助けてくださるからである。主が彼と共に争い、彼の正しさを認めてくださるからである。人から打たれ、辱められているときにも主の弟子はそれが神の御心であると知り、その使命を忠実に果たした。後の時代にわたしたちの救い主として地上を歩まれた主イエス・キリストも神の御心を知り、十字架の死に至るまで従順であられた。
 今の時代にも神はクリスチャンに対して苦しみの中を通ることを望まれることがあるかもしれない。わたしたちは神が困難から遠ざけ、よいものを与えてくださることだけを求める傾向がある。しかし、常に祈りの中で神の御心を求め、神が命じられるなら苦難を受ける道をも主と共に歩んで行ける者になりたい。

2016/10/14(金) 担当 高谷清師  詩編27:1−3  賛美 新聖歌 341
ダビデは本詩を「主はわたしの光、わたしの救い/わたしは誰を恐れよう。主はわたしの命の砦/わたしは誰の前におののくことがあろう。」と述べることから始める。詩篇23篇のはじまりを思い起こさせる。ダビデはここまで主に対する信仰によって数々の試練と戦いに勝利してきた。信仰による勝利の経験を重ねるごとにその信仰は益々固くされて行ったのである。その確信に立って前途に目を向けるとき、さらに多くの厳しい戦いが待っているであろうことが予見される。敵が如何なる戦いを挑んで来ようとも「わたしの光、わたしの救い、わたしの命の砦」である主にあるダビデの心は恐れることはない。彼は確信を持つことが出来る。数々の信仰の戦いを経験してきたパウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。またヨハネは「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。」(?ヨハ4:18)と述べている。試練に際し主から賜った勝利の経験と、聖霊によって心に注がれている愛によって、主に在って恐れることなく信仰の道を歩もう。

2016/10/15(土) 担当 高谷由紀子師 マタ7:24-27 新聖歌 316
 家を建てるときに大事なのは土台である。確かな、しっかりとした土台の上に建てた家は嵐やそのほかの災害に強い。弱い土台の上に建てた家は外観を見栄えよく建てたとしても、災害に遭うと倒れてしまう。主イエスはこの譬えによって、固い岩の上に土台を据えた人を賢い人、砂の上に土台を据えた人を愚かな人と言われた。私たちは何の上に人生の土台を据えているだろうか。神のことばこそ人生の土台を据えるべき岩である。”,,894″