2016/10/3-8

2016/10/3(月) 担当 高谷清師  ?ペテ5:5  賛美 新聖歌 339
 ここでぺトロは視線を転じて若い人たちに「長老に従いなさい」と語りかける。「若い人たち」について小畑進師は「若いということは、気が移りやすく、恒心に乏しく、手綱をつける必要があるからである。紀元一世紀のペテロの時も、十六世紀のカルヴアンの頃も、そして今日の若者も、気質は同じなのでしょうか。」(小畑進著作集第5巻ペテロの手紙第一講録P443−444いのちのことば社)と述べておられる。更に若い人たちの特徴をあげれば、経験が浅いだけに、従来からの考えにとらわれず、新しい発想が出来ることである。この点は大切にしなければならない。同時に長老たちは長い経験を有し、何よりも神によって立てられているのである。それ故、若い人たちは長老に従い、その教えを自らのうちで消化し、更に聖霊の導きの中で新しく成長させることが求められるのである。それによってより偉大な指導者が育て上げられることこそ、教会の願いである。

2016/10/4(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書49:10-21 賛美 新聖歌111
 シオンが回復されるというメッセージを聞いても民はそれを確信をもって受け止めることができない。彼らの最初の応答は「主は私を見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた」(49:14)。民が罪の結果、神の裁きを受けて大変な苦しみを経験したことを考えると、もはや神は彼らを見捨てられたと考えるのは頷ける。主はこのような状態にある民に「あなたは信じなければならない」と叱責されたわけではなかった。娘シオンを守って育てる母親のイメージや速やかな回復の更なる約束など、様々なイメージを用いて彼らを励まし、もう一度神に信頼できるように導く。
 信仰生活において試練が続く時、神が遠くにおられるように感じることがあるだろう。落胆し、もう自分は独りぼっちだと感じることがあるだろう。しかし主は決して見捨てられることはない。み言葉を紐解き、約束の言葉を握って主と共に歩もう。

2016/10/5 (水) 担当 高谷清師  ?ペテ5:1-4 賛美 聖歌 136
 ぺトロは教会を形成するすべての人々に対して「互いに謙遜を身に着けなさい。」と呼びかける。パウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。」(フィリ 2:3-5)と述べている。またウェイン・A・グルーデム師は『「謙遜」という語は、他者を第一にし、自分自身のことよりも他者の願望、必要、考えにより多くの注意を払うべきであると考える心の態度を語っている。』(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P217いのちのことば社)」と述べておられる。謙遜は私たちのために自らを与え尽してくださった主イエスご自身の心であり、私たちが全身全霊をもって希求すべきものである。そして「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」と記されている。「謙遜」には神の恵みが約束されているのである。

2016/10/6(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書49:22-26 賛美 新聖歌303
 なお確信を持てないエルサレムに対して神は励ましの言葉を語り続けられる。エルサレムを滅ぼされて捕囚になった民にとって、国々とは彼らのアイデンティティを奪い、支配した国々であった。そのような国々が彼らの子どもを養い育てる者として彼らに仕えるということはにわかに信じられることではなかった。しかし、ここでは神がそのことをなさると重ねて語られ、そのことの実現を見るときに彼らは主を知るようになると言われている(49:23, 49:26)。
 目に見える状況が絶望的であっても、神はその中から救いと回復を与えることができる。自分の力に頼るのではなく、神に頼ることにこそ希望と回復が見出される。

2016/10/7(金) 担当 高谷清師  詩編 27:1-6  賛美 新聖歌 346
 詩編27編は1-6節と7-14節二つの部分に分けられる。前半・1−6節は神に対する確固とした信仰を告白している。この箇所についてA. ヴァイザーは「神への大胆な信頼のゆえに作者はあらゆる危険をものともせず、泰然自若として未来を見つめることができる。だがそのような信頼をあらわす気力のこもったことばの背後には、苦難と苦闘の厳しい人生経験だけでなく、神による救いと信仰の勝利の経験もまた裏打ちされているのである。血気盛んな若者は、人生の苦労も煩いも知らず危険の深刻さをとかく見過ごしがちであるが、これはそうしたはち切れんばかりの活力とは違って、人生の闘いを通して練り鍛えられた壮年男子の信仰の力なのである。彼は人生のさまざまの現実を計算に入れているが、それによって意気阻喪しないだけでなく、むしろますます確信をもって「かしらを上げ」、希望と喜びに満ちた信仰の力によって心を励まされ、堅固にされている。この歌はそのような姿勢と気持ちで書かれており、信仰は人生に対する逃げ腰の態度とは無縁であって、人を闘いにおいて鍛え上げ、偉大な英雄の高みにまで引き上げてくれるものであることを、堂々と証しているのである。」(ATD旧約聖書註解詩篇上P313−314 ATD・NTD聖書註解刊行会1983)と述べている。パウロは「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ 5:3-5)と述べている。御言葉に固く立ち、あらゆる試練と艱難に耐え、練達した信仰者となろう。

2016/10/8(土) 担当 高谷由紀子師 マタ6:1-4 新聖歌 459
 主は善行について「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」と教えられました。人は善行をしようとする場合、人から認められ、称賛されようとして、会堂や街角で行う、即ち、自分の前でラッパを吹き鳴らそうとする誘惑にかられます。しかし、この世において人から称賛を受けてしまったなら、父なる神からの報いを受けることはできないのです。人目につかない隠れた善行、人から報いを受けることの無い善行に対して父なる神が報いを与えてくださるのです。人からではなく、父なる神から報いを受ける、天に宝を積む信仰生活を送りましょう。”,,915″