2020/1/6-11

 2020/1/6(月) 担当 高谷清師 ヨハ 16:14-15 賛美 新聖歌 414
イエスは聖霊の働きについて「その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」と教えられる。イエスについてヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ1: 18)と述べている。またイエスは「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」(ヨハ14: 24)と教え、パウロは「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」(コロ1:15)と述べている。更にヘブライ人への手紙の記者は「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」(ヘブ 1: 3)と述べている。このようにイエスの教えは父の教えであり、イエスの言葉は父の言葉である。聖霊はイエスの言葉を私たちに教え、悟らせてくださる。それによってイエスは栄光を受けられるのである。

2020/1/7(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書2:12-16  賛美 新聖歌181
神はイスラエルの人々の罪を指摘された。社会の弱者を助けず、逆に彼らを踏みつけてきた罪と、神が送られた人々を軽んじた罪に対して神御自身が足元の地を裂かれる。これは神の力によって罰として与えられる大地震であろう。権力を拡大し、富を得て、社会を支配できると考えてふるまう人々であっても、実際に足元が震い、全てのものが破壊される地震に遭遇すると、自分の命すら完璧に守る手段も持たない。ただ神の裁きに服するだけである。
過去の歩みにおいて様々な恵みを受けて神に導かれ、守られてきた民は、その一つ一つを聞きながら神の憐れみ深さを思い起こした。同時に、自らの罪深い歩みを聞くときに、神の裁きの前に立つべき存在であることを知る。主の前に生きるということは恵みだけを受け取るということではなく、義なる神の御心にかなう歩みを神の助けによって歩ませていただくことである。今日も主の助けによって主の目にかなうものとして歩ませていただきたい。

2020/1/8(水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:16-20 賛美 新聖歌 415
一切れのパンを受けてユダが去って行った後、イエスは、残された時間の少ないこと、ご自身に襲いかかる苦難と弟子たちが直面する絶望を思い、心を込めて弟子たちに語られた。しかし弟子たちは師の心と言葉を理解しなかった。彼らは「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」と互いに語り合っていた。弟子たちの思いを察知されたイエスは「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」と語られる。これから起こるイエスの十字架の死は「世」に勝利感と喜びをもたらし、弟子たちに絶望感をもたらした。しかし、それに続く復活と聖霊降臨はイエスの勝利を宣言し、弟子たちに消されることの無い希望をもたらした。しかし福音書のこの時点では十字架も、それに続く復活も聖霊降臨も弟子たちの目には隠されていたのである。イエスの復活の命と聖霊の保証の中に生かされている私たちは聖霊に満たされ、福音に固く立ち、感謝と喜びをもって主の業、福音を証しすることに励もう。

2020/1/9(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書3:1-2  賛美 新聖歌396
「選ばれる」というのは気持ちの良いものである。選ばれなかったものとは違う特別感がある。そして選ばれたことによって特権が与えられる。イスラエルも神に選ばれたことを、特権を与えられたと考えていた。それ故に2章の終わりでの選ばれた彼らに対する神の裁きを聞いて困惑し、受け入れ難いと感じていた。この渦中にいる彼らに対して神はもう一度イスラエル12部族を選ばれたことを再確認された。しかし神の選びは民が特権と利益を受けることが目的ではなかった。神が選ばれたのはイスラエルを通してご自身の栄光を表すためであった。だからこそ特別に選んだイスラエルが罪を犯す時には、裁きを与えられるのだ。
神とともに歩むためのガイドラインである律法と恵みは与えられている。神に従う力も与えられている。裁かれるかもしれないとびくびくしながら歩むのではなく、罪から離れて神の御心に従う歩みをさせてくださる主に頼りつつ、この一年も歩みつづけよう。

2020/1/10(金) 担当 高谷清師 詩 50:16-20 賛美 新聖歌 201
神は背く者に「お前はわたしの掟を片端から唱え/わたしの契約を口にする。どういうつもりか。お前はわたしの諭しを憎み/わたしの言葉を捨てて顧みないではないか。盗人と見ればこれにくみし/姦淫を行う者の仲間になる。悪事は口に親しみ/欺きが舌を御している。座しては兄弟をそしり/同じ母の子を中傷する。」と言われる。背信のイスラエルについてエレミヤは「どうしてお前たちは言えようか。「我々は賢者といわれる者で/主の律法を持っている」と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き/それを偽りとした。」(エレ 8:8)と述べている。また、イザヤは「主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。」(イザ 29:13)と述べている。口先だけで律法を唱え、宗教的知識をひけらかし、律法の心をないがしろにする態度は宗教生活の形骸化であって、神の御心を棄てるものである。ある著名な説教者が「イエスは主である」という言葉は定式的な信仰告白としては誰でも口にするが、真実誠をもって告白できる人が幾人いるだろうか」という意味のことを語っておられたが、同感である。今日、神が求めておられるのは真実誠をもって「イエスは主である」と告白しつつ従う信仰者である。

2020/1/11(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 6:1-6 賛美 新聖歌 408
イエスは故郷に帰り、安息日に会堂で教え始められた。この教えを聞いた人々は驚いて「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言って、幼い時からイエスを知っていた故に多くの知恵と奇跡を見てもイエスを神の子と認めることが出来なかった。私たちに求められているのはイエスを霊によって知ることであり、信仰によって受け入れることである。聖霊の導きの中で御言葉を学び、祈ることが大切である。