2015/8/21-9/6

2015/8/31 (月) 担当 高谷清師  ?ペテ1: 6-9  賛美 新聖歌 338
 キリスト者が遭遇する試練の目的としてぺトロは「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され」と述べる。金は、貴金属と呼ばれ、この世において貴く、永続するものとされ、すべての価値の基準とされてきた。それは金を僅かに含む金鉱石を火によって製錬し、不純物やかすを取り除き純粋なものへと仕上げ、それによって価値あるものとするのである。世においてこのように価値あるものとされる金も「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(?コリ15:50)」と記されているように、神の国を受け継ぐことはできない。一方、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです(ロマ 1:17)」と記されているとおり、信仰は永遠の命を得させるのである。その意味において信仰は金よりもはるかに貴重なものである。信仰もまたは製錬されなければならない。それは試練によって製錬される。この試練に耐え抜くとき、私たちの信仰は本物と証明される。それ故、試練をも神の恵みと受け止め、御言葉に立って勝利していこう。

2015/9/1(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書7:1-9 賛美 新聖歌396
 7章に入るとまずこの出来事が起こっている時代と状況が示されている。それはアハズ王の時代であり、ユダはまさに攻めかかってくる敵を前にして心がざわめいている。しかもその敵はアラムと北イスラエルであった。北イスラエルはもともと同じイスラエル12部族から別れた同胞である。その同胞がユダに襲い掛かろうとしている。何が起こっていたのだろうか。当時パレスチナの北東に位置するメソポタミア地方ではアッシリアが力をつけていた。その脅威にさらされたパレスチナの国々は同盟を結んでこの新興勢力に対抗しようとした。その同盟に入っていたのがこのアラムと北イスラエルであった。彼らは同盟を強化するために同じ地域にあるユダを仲間にしようとしていたが、ユダは当時の情勢を見極めながら態度を決めかねていたのである。そこに武力で威嚇してこの同盟にユダを引き入れようとする軍隊が送られてきた。この危機にあってユダの王アハズはエルサレムのはずれにある貯水池を視察し、戦いへの備えを整えている。
 目前に危機が迫っているとき、人は何とか対策を打とうとする。必要な行動である。しかし、自分の努力によるだけでは不十分である。この努力は神への信頼の上に成り立たなければならない。今日私たちが難題に直面するとき、神への信仰を基盤として行動するだろうか。

2015/9/2(水) 担当 高谷清師  ?ペテ1: 6-9  賛美 新聖歌 341
 ぺトロは「イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」と述べている。クリスチャンとして生きる人々にもいろいろな歩みがある。ある種の人々は世においての賞賛を受けようとして媚び、世の栄誉を受けていく。しかし、ある人は唯主を見上げ、ひたすら忠実に主に仕えながら、試練と困難の中に在って、周囲からはバカ者扱いされ、無視される。主イエスの地上における生涯もまたそのようであられた。(イザヤ書53章参照)。これについて聖書は「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。すなわち、忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり、反抗心にかられ、真理ではなく不義に従う者には、怒りと憤りをお示しになります(ロマ 2:6-8)」と述べている。私たちは世の評価、成功、名誉、評価、蔑み・・・・・・等にとらわれず、只管信仰により、御言葉に立って神が自らに備えてくださっている信仰の道を全うしょう。

2015/9/3(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書7:1-9 賛美 新聖歌327
 火曜日に続いてユダの危機の状況について見る。この差し迫った状況で神のことばを求めないアハズ王に対しても神は預言者を送られた。子どもたちの名前がしるしとなる。シェアル・ヤシャブすなわち「残りの者は帰って来るであろう」という名の子を伴って王に面会に行ったイザヤは、目の前に迫る敵軍を恐れてはいけないと語る。それは根拠のない気休めではなく、近い将来これらの敵国は滅び、ユダは守られるという神のことばによって支えられたメッセージであった。神のゆるぎない真実の言葉が与えられたとき、王に求められたのは信仰であった。神のメッセージを与えられたとしても、受け取った人々が「信じる」ことを選択し、決意しなければそれは無に帰する。
 クリスチャンは「私は信仰を持っています。」と言うだろう。御子イエス・キリストの血によって贖われ、救いを受けていることを信じている。そしてさらに日々の歩みの中で、この救い与えてくださった神の力が私たちに働いていることを信じなさいと言うこのメッセージをしっかりと受け取り、実行していこう。

2015/9/4(金) 担当 高谷清師  ?ペテ1: 6-9  賛美 新聖歌 320
続いてぺトロは「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」と述べる。「信じており」という言葉についてウェイン・A・グルーデムは「『信じている』と訳されている動詞は、ここでは「信頼する」「自分の確信を・・・に置く」「・・・依存する」を意味する。この動詞には前置詞(eis)が続くが、それは新約聖書以前にこの動詞と一緒に使用されたことは明らかになく、また「・・・の中へ」という驚くべき意味合いを含み、あたかもほとんどこの個人的な信仰が主イエス・キリスト「の中に」入り込み、そこに安らぐか留まるかするかのようである。動詞と前置詞の組み合わせは、信じる行為の中に強い個人的なかかわりを意味しており、キリストの中で休息する意味を含んでいる。(ティンデル聖書注解ペテロの手紙第1P68−69いのちのことば社)」と述べておられる。主イエスは十字架を前にして弟子たちに「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。(ヨハ 15:9)」と語られた。信じるとは、単に箇条的なものを信じることのみならず、聖霊の恵みの中における神との豊かな愛と命の交わりである。

2015/8/29(土) 担当 高谷由紀子師 ヨハ 6:1-15   賛美 新聖歌359
 イエスがガリラヤ湖の向こう岸へ渡られたとき、イエスが病人たちになさったしるしを見ていた大勢の群衆が後を追ってきた。それを見てイエスはフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた。フィリポが当惑しているとアンデレが「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」と言った。イエスがそのパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に欲しいだけ分け与えられ、魚も同じようにされると人々が満腹した。人々の数はおよそ五千人であったと記されている。
 私たちは大きなものを持っていないかもしれない。しかし今持っているものを主の手に委ねるとき、主はそれを祝福し、大きなものと変え、用いてくださるのです。今持っているものを主の手に委ねる信仰を持って歩みましょう。”,,1211″