2013/3/18-23

 

2013/3/18(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌514
 11章において著者は旧約における多くの信仰者について述べた。それを受けて「このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と述べている。著者が生きた時代も信仰者は少数派であり、迫害の嵐にさらされていた。そのような状況のなかで誘惑に心ひかれる者たちもいたのである。それらの人々に対して、旧約の信仰者たちは励ましを与える証人であった。わたしたちが生きる現代日本においても、キリスト者は少数派であり、信仰者は多くの戦いを強いられている。この拙文を読んでいてくださるお方の中にも、夫から理解されず、妻から理解されず、また親から、友から、上司から、地域社会から受け入れられず、苦しい信仰の戦いを強いられている方々がおられるかもしれない。しかし立派に信仰の戦いを戦い、勝ち抜いた無数の信仰の証人たちがあることを心にとめ、自分に定められている競走を走り抜こう。
 

 

2013/3/19(火)担当 高谷満世師 列王記上5:9-5:14 賛美 聖歌593
 神はソロモンに比類なき豊かな知恵を与えられた。ソロモンの知恵はあらゆる分野にわたり、ソロモンの名はすべての国々に知れ渡った。まさに、ソロモンを見るときに人々は驚いただろう。誰もがその深い知恵に注目し、感嘆した。今の時代に聖書に記されたソロモンの姿を思うときにも、だれもがあこがれるような存在である。しかし、忘れてはならないことがある。ソロモンが知恵を求めたのは、自分自身が尊敬されるためでも、権力を強化するためでもなかった。ソロモンは神の民を正しく治めていくために知恵を求め、それが神の御心にかなったのだ。
 私たちは誰でも、愚かな人になるよりは、賢い人、知恵に満ちた人になりたい。神は私達が大胆に、自由に求めることを赦してくださる。私達が神の栄光のために求めるときにこそ与えてくださるのである。そして、与えられたものを神の栄光のために用い続けなければならない。それが私達の責任である。
 

 

13/3/20 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:1-3 賛美 聖歌521
 少数派であり、迫害の嵐にさらされてくじけそうになっている信仰者たちに「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と語りかける。聖書において信仰者はしばしば競走者にたとえられる。競走者は何よりも身軽になることが求められ、そのためには不要なもの、外になるものを捨てなければならないのである。信仰者が捨てるべき者の第一は「すべての重荷」である。現世への愛この世の楽しみ肉の欲富や名誉等である。これらは信仰の前進のために益に働く場合もあるが、妨げとなる場合もある。妨げとなる場合にはそれを捨てなければならない。主は「右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである(マタ 5:29-30)」と教えておられる。
 

 

2013/3/21(木)担当 高谷満世師 列王記上5:15-32 賛美 聖歌520
 ソロモンはいよいよ神殿建築の準備に取り掛かる。ダビデはかつて神殿建築を願ったが、それは神の御心ではなかった。神は戦いに明け暮れたダビデに代って、神殿建築をソロモンに託されたのである。ソロモンが即位してから、最初に記されている記事は、ソロモンが神のために願った知恵に満たされたことであった。続いて語られるのは神殿建築である。ソロモンの統治において大切なことは、世の中を組織的、効率的に治めるための国の仕組みではなかった。ソロモンの治世において大切なことは神殿建築であり、神への礼拝の場所を整えることであった。ソロモンは神との関係の大切さ、礼拝の重要性をよく理解していた。さらに、それを実際に行動において大切に扱ったのである。
 「礼拝は大切だけど、ほかのことが忙しいからまたあとで。」こんなことを言いながら貴重な時間を過ぎ去らせてしまっていないだろうか。心から神を愛し、神に従う人は、口先だけではなく、本当に大切にすべき神に関わることを優先していくのである。
 

 

2013/3/22(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙12:1-3 賛美 聖歌447
 次に捨てるべきものは「絡みつく罪」である。「絡みつく罪」についてカルヴァンは「いわゆる外的な、現実にある罪のことを述べているのではなく、その根源、すなわち邪欲のことを言っているのである。この邪欲は人間のあらゆる部分を占めていて、そのなわ目にがんじがらめにされていると感じられるほどである。(カルヴァン新約聖書注解??P265)」と述べている。これについてパウロは「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。(エフェ 4:22-24)」と述べている。わたしたちを心の底から新たにし、 神にかたどって造られた新しい人とする十字架の恵みの中に生きることによってのみ、「絡みつく罪」をかなぐり捨てることができるのである。今日も十字架の血潮を見上げつつ生きよう。
 

 

2013/3/23(土) 担当高谷由紀子師 フィリピの信徒への手紙 2:3-4 賛美 聖歌476
 日常生活の会話を注意して聞いていると「私の家は、私の主人は、私の子供は」と自分のことに終始している人が多いのです。自分のことで頭がいっぱいで他人のことを思いやる余裕を失っている人が多いのです。しかし聖書は「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と教えています。そして他の人に目を向ける場合「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることが大切です。どんなに偉大なものをもっていても、全知全能の神の前には無に等しい者であり、神がそれを与えてくださったのはそれをもって神と人に仕えるためであり、神の栄光を顕すためであって、自分を高くし、他人を見下げるためではありません。弱っている人、困っている人、病んでいる人に、真にへりくだった思いをもって寄り添う人になりましょう。