2014/7/14-19

2014/7/14(月) 担当 高谷清師 ?コリ8:7-13 賛美 聖歌 438
 知識のある信仰者は「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないこと」を知っている。しかし、この知識がだれにでもあるわけではない。キリスト者になっても、この知識の高みに到達していない人々は、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去ないために、偶像礼拝をしてしまっていると考え、それによって汚されるのである。パウロが「疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです(ロマ 14:23)」と述べているとおりである。知識のある人々にとっては偶像に供えられた肉を食べることは何の影響もないが、知識のない人々は知識のある人々のそのような行いを見ることによって躓くのである。私たちは自分の強さによって弱い人々を躓かせてはならない。

2014/7/15(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上17:23-27 賛美 新聖歌343  
 ここでダビデは感謝の祈りを閉じる。ダビデは神の祝福を感謝すると同時に、祝福を受けるという確信を述べている。その祝福の理由は神から賜ったみことばであった。神の約束に基づいて御前に出て、そして祈っている。神の祝福を受けるのは過去に、あるいは現在ダビデが神のために良い行いをしたからではない。あるいはサムエル記にあるように将来、神が下さるかもしれない言葉によって保障される約束でもない。すでに主が言葉を下さり、約束を下さったがゆえの祝福なのである。この祈りのなかにダビデの神に対するゆるぎない信仰と平安が見られる。
 祝福は神から与えられる。そして神の祝福と恵みは人間の行為の対価として与えられるものではない。ただ神がすでに与えてくださっている約束の実現であり、神の憐れみである。祝福を受けるために私たちは神と取引する必要はないし、取引など出来るものではない。神を信じて従順に歩む私たちにはすでに神の祝福が確かに注がれている。その確信を持って平安の内に歩もう。

2014/7/16 (水) 担当 高谷清師 ?コリ8:7-13 賛美 新聖歌 214
 パウロは「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」と述べる。「知識ある人々」にとっては、「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」のであるから、偶像に供えられた肉は、そうでない肉と同じである。従って偶像に供えられた肉を食べること―偶像の神殿で食事の席に着くこと―は全く自由である。しかし「知識のない人々」がそれを見るなら、彼らを偶像礼拝に誘うことになる、即ち彼らを罪に誘うことになるのである。それは愛による行いではない。キリスト者はキリストの贖いの恵みによって自由を与えられている。しかしその自由は自分の欲望によって行使されてはならず、愛によって行使されなければならない。

2014/7/17(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上18:1-17  賛美 新聖歌172  
 17章での祝福の約束に続いて18章ではダビデの戦勝記録が報告されている。ペリシテやモアブ、ハマト地方のツォバの王、アラム人に対する勝利が次々と語られ、18:6ではダビデが行く先々で常に勝利を与えられたと記されている。まさにダビデのこの勝利に次ぐ勝利は神の祝福の目に見えるしるしであり、神から来るものであった。確かに神は約束された祝福を実現されている。神は軽々しく口約束を与えて、それを反故になさるような方ではない。またこの18章では神の一方的な祝福だけではなく、この祝福を受けたダビデの誠実さについても語られている。ダビデは戦争に勝って得た戦利品や貢を自分の私腹を肥やすために使わなかった。彼はそれらを主のために聖別した。そして将来ソロモンが神殿を建てるために用いることになる。
 祝福は人間の行為の見返りとして受け取るものではない。神の約束と憐れみにより注がれる賜物である。それと同時に、祝福を受けることによって人はダビデのように自発的に神への感謝の応答へと導かれ、与えらたものを神にささげるのである。この神との関係は今日のクリスチャンにもあてはまる。受けた恵みを数えつつ、感謝の捧げものを携えて御前に出よう。

2014/7/18(金) 担当 高谷清師 ?コリ8:7-13  賛美 新聖歌 238
 さらにパウロは「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」と述べる。社会にはいろいろな人々がいる。富んでいる人々、貧しい人々、社会的地位の高い人々、そうでない人々、健康な人々、病弱な人々、・・・ある人々は社会で優遇され、ある人々は冷遇される。教会においても表立った奉仕をする人々、信仰深そうにふるまう人々は優遇され、地道な人々は軽んじられる。それは人間の常である。しかし主は冷遇される人々、軽んじられる人々のためにも死んでくださったのである。ヤコブ書は「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。 わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか(ヤコ 2:1-5)」と述べている。肉の目によって人を判断しないようにしょう。

2014/7/19(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ15:1-10  新聖歌222
 主は失ったものが見つかったという出来事の二つのたとえを話しておられます。どちらでも印象に残るのは大切なものを失った持ち主が、その品を見つけ出した時に経験した大変な喜びです。この箇所を読むときに自然とこの持ち主と同じ気持ちになって読んでいます。これをクリスチャン生活に置き換えると、私たちは神様の目から失われている罪人が見いだされて救われたときに大きな喜びを経験することがあります。しかし注意深く読むと、7節と10節にあるように、これは罪人が救われたときの神様の大きな喜びについて語られているのです。
 私たちもかつては神様の目から見ると失われた大切な存在でした。しかし悔い改めて神様に立ち返ることによって神様の手の中に帰ってきたのです。そして私たちの救いは神様にとっても大きな喜びなのです。これほど神様に愛されていることを感謝しつつ、その神様の愛に応えていきましょう。”,,1332″