2014/7/7-12

2014/7/7(月) 担当 高谷清師 ?コリ8:4-6 賛美 聖歌 273
 パウロは「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」と述べる。詩篇の作者は「国々の偶像は金銀にすぎず/人間の手が造ったもの。口があっても話せず/目があっても見えない。耳があっても聞こえず/鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず/足があっても歩けず/喉があっても声を出せない」と述べている。確かに、偶像は人の手になるもので、神ではない。従って私たちに対して何の力もない。しかし、偶像を信じ、礼拝する人々は偶像によって「病気が治った」「問題が解決した」「願いが実現した」等と証言する。私たちはそれを一笑に付してはならない。彼らの証言は偽りではない。これは悪霊の働きである。悪霊はこれらによって人々を自分の信奉者にし、永遠の滅びに導こうとしているのである。主は「盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである(ヨハ 10:10)」と教えられた。命を得させるのは主イエスの十字架を信じる信仰だけである。悪霊に捕えられた人々に真理を悟らせるのは聖霊だけであり、私たちには愛と忍耐による祈りが求められるのである。

2014/7/8 (火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上17:1-15  賛美 新聖歌206
 ダビデは自らの心地よい住まいとしての王宮を建て、そこに住み始めた。その時にダビデが気にかけたのは神の住まいとしての神殿であった。これはダビデの神に対する純粋な信仰から出たものであった。預言者ナタンはそれを聞いたときにまずダビデに賛同した。しかし神のことばが預言者に臨んで語られたことは預言者とダビデの思いとは違っていた。
 神が語られる言葉の中で一つの焦点となっているのは、だれが何を建てるのかという点である。ダビデは神のために文字通りの建築物としての神の住まい―神殿―を建てようとした。しかし神はご自身がダビデのために家を建てる(17:10)と約束された。もちろんこの時すでにダビデは自分の家である王宮に住んでいたのだから、主が語られたダビデのための家とは物理的なものではなかった。主はダビデの家族、子孫を建てると言われ、ダビデの子が王位を継ぐことを約束された。人は神に仕える。しかし、それは人の手によって神の必要を満たすためではない。神ご自身が人を建て上げてくださる。今日も主に導かれ、主が私たちを建て上げてくださることを覚えて歩もう。

2014/7/9 (水) 担当 高谷清師 ヨハ 16:33 賛美 新聖歌 459
 ここで悪霊について一瞥しておきたい。使徒言行録19:11-17には、主がパウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われているのを見てそれをまねていた、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちのことが記されている。彼らのうちのある者たち、ユダヤ人の祭司長スケワという者の七人の息子たちが悪霊に向かって「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ったとき、悪霊が「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言い返して、「悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出した」と記されている。主は「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハ 16:33)」と述べておられる。人は、肉の力によっては悪霊に勝利することはできない。伝道は悪霊との戦いである。福音に固く立ち、信仰と聖霊に満たされることによってのみ、勝利を得ることが出来る。

2014/7/10 (木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上17:16-22  賛美 新聖歌233
 神殿建築への熱意に対する神からの支持を得たダビデは感謝の祈りをささげる。神殿建築については、神はダビデの望みをそのまま聞き入れられたわけではなかった。しかし、ダビデは神の御心を受け入れて感謝の祈りをささげている。ダビデはこの祈りの中でまず神の慈しみに感謝している。ダビデはエッサイの子であり、一人の羊を飼う若者に過ぎなかった。庶民であった彼が神に選ばれてイスラエルの王の地位にまで上げられた。この祈りの中でダビデは決して自分が恵みによって支えられ、導かれたことを忘れてはいない。高い地位についたときに神の恵みを忘れ去り、自分の功績によって成功したかのようにふるまってはいないのである。今までダビデ自身に注がれた神の慈しみと愛を語るとともに、ダビデはまたイスラエルの民自身もただ神の恵みと大いなる御業によって贖われて神の民とされたことを語っている。
 ダビデは祈りにおいてまず神の愛と慈しみについての感謝をささげた。そして神が注いでくださったこの恵みがさらに神に大胆に願い求めていく祈りの基盤となる。私たちにも神は大きな恵みを注いでくださった。これを思い起こし、神の御前に祈りをもって歩み出よう。

2014/7/11(金) 担当 高谷清師 ?コリ8:1-6  賛美 新聖歌 302
 パウロは「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです」と述べる。この箇所を新改訳は「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです」と訳している。聖書によると私たちは神から出た者であり、神のために存在しているのであり、やがて神に帰っていく存在である。未だ神を知らなかった日々、自分の存在、生の意味について悩んだことを思い起こす。神を知ることによってのみ、私たちの生は有意義なものとなるのである。今日、老人の自殺が多いという。若き日の生への疑問に対する答えを得ないまま、増大する社会的・家庭的役割に追われ、一定の評価を受けてきたものの、定年退職し、子供たちも独立した時、生の意味、生甲斐を見失うのである。真の生甲斐は神を知るところにのみ、存在する。聖書は『青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに(伝 12:1)』と述べている。

2014/7/5(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ 5:1-11 賛美 新聖歌316
 主は群集に話し終わった後シモンに「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。シモンは「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
 漁師たちはその道の専門家であり、ガリラヤ湖の漁について知り尽くしていた。「いかにイエス様とはいえ、素人が」と思ったかもしれない。しかし謙遜になって御言葉に従ったとき、大漁に恵まれた。主の言葉は不可能を可能にする。”,,1211″