2014/7/21-26

2014/7/21(月) 担当 高谷清師 ?コリ8:7-13 賛美 聖歌 179
 パウロは「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」と述べている。この箇所についてカルヴァンは『かれの言いたいことは、こうなる。「あなたの知識が兄弟に滅びの原因となるなんて、道理にかなったことだろうか。兄弟を滅ぼすために知識を用いるなんて、あなたは、どうするのが一ばんよいことかが、わかっているのか」。 かれは、とくに、兄弟という語を用いて、かれらの高ぶりを無情であるときめつけたのである。その意味は、こうである。「なるほど、あなたの軽んじている者は、弱い者である。しかし、とにかく、その人は、あなたの兄弟なのだ。神は、その人をも子としたもうたのだ。だから、あなたが兄弟のことを心にかけようとしないのは、無慈悲なことである」。さらにこの後に続く言葉は、一そうはげしい。無知な者・弱い者も、キリストの血によってあがなわれているのである。ほんとうに、イエス・キリスは、弱い者たちが滅びに入ることのないように、すすんで死につかれたというのに、わたしたちが、これ程の代価をもってあがなわれた人たちの救いを、心にかけようとしないのは、まさに、不当なことではないか。このすばらしい聖句によって、かれは、兄弟の救いを尊重すべきことを、わたしたちに教えたのである。それも、一般的に、兄弟全体の救いを重んずるだけではならない。兄弟ひとりびとりの救いを、それぞれに重んじなければならない。キリストの血は、ひとりびとりのために流されたのだからである。』(カルヴァン新約聖書注解?コリント前書P198新教出版社)と述べている。さらにパウロはロマ書において「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです(ロマ14: 4)」と述べている。弱い兄弟姉妹たちを重んじよう。キリストが彼を愛し、彼らのために血を流され、彼らを立たせて下さるからである。

2014/7/22(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上19:1-19  賛美 新聖歌340  
 アンモン人の王の死に際してダビデは哀悼の意を表して家臣を、後を継いだアンモン人の王に送った。ダビデは亡き王に敬意を表したにもかかわらず、新しい王から受けたのは侮辱であった。さらにダビデの憎しみをかったことを悟ったこの王は、謝罪をするどころか戦いを仕掛けてきた。ダビデが神の前に正しく歩んでいてもこのような不当な扱いと戦いを受けることがあった。この戦いのとき、アンモン側には他の国々も加勢し、ダビデ側の陣営は前後からはさまれることになった。最悪の状況である。しかし、ダビデの陣営はこの状況をも好機として用いることができた。挟み撃ちにされたからこそヨアブとアブシャイは互いの戦力を融通して補い合って、効果的に戦うことができた。
 「神を信じて従っているのになぜこんなことが起こるのか?」というつぶやきはしばしば私たちの口をついて出てくる。ダビデもこのような状況であった。誠意をもって他国の王に接したのに、侮辱を受ける。なぜ神はこのようなことを許されるのかと感じるような状況であっただろう。しかし、どんなことが起こっても神は知恵を与えてその不利な状況をも用いてくださる。あらゆる状況において働き、良きことをしてくださる神を信頼して歩もう。

2014/7/23 (水) 担当 高谷清師 ?コリ8:7-13 賛美 新聖歌 217
 続いてパウロは「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」と述べる。私たちの主は「正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない(マタ12:20)」お方である。主イエスを信じて罪赦され、神の子とされた人々の信仰の成長の早さには個々人において違いがある。ある人は早く、ある人は遅い。しかし主は、傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さないお方である。歩みの遅い人々に対しても、主は彼に歩調を合わせ、忍耐深く、愛をもって導かれるのである。もし私たちが彼らを躓かせるなら、それは主の御心を損ない、主に対して罪を犯すのである。弱い人々、歩みの遅い人々に対しても、主の心を自分の心として、愛と忍耐と祈りをもって仕えていこう。

2014/7/24(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上20:1-8  賛美 新聖歌317  
 先代の王の死に端を発したアンモンとの戦いが続いていた。ダビデの軍は戦いを有利に進めており、ダビデ自らはエルサレムにとどまって戦いをヨアブに任せていた。サムエル記ではこの戦いのときにダビデとバト・シェバの間に起こったことが報告されているが、歴代誌はその出来事には触れていない。ダビデはこのアンモンとの戦いに勝利し、その王の冠を自分のものとした。つまり、アンモンに対して完全に勝利し、支配し、隷属させたのである。さらに20章にアンモン人に続いてのペリシテ人との戦いが記されている。ここペリシテ人は巨人として記されている。彼らはまさに「ラファの子孫」、イスラエルがカナンの地に入る以前からそこにいたレファイム人として描写されている。ダビデは彼らにも勝利し、治めると記されている。
 出会う敵がどれほど強くても、神は選ばれた者、そして神に従う者であるダビデを助けてくださる。それはダビデの名が高められるためではなく、神の命令が遂行されるためであり、神の支配が神の選ばれた王を通して行われ、神の栄光が顕されるためである。神に従う人を通して神は働かれる。

2014/7/25(金) 担当 高谷清師 ?コリ8:7-13  賛美 新聖歌 344
 この項の結びとして、パウロは決然として「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と述べる。さらにパウロはコリントの信徒への手紙?において「すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。『「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない(?コリ6:12)』と述べている。
 日本においては成人者には喫煙が許されている。しかし喫煙は、喫煙者とその周囲の人々の健康に害を及ぼす。同様に、キリストの血潮によって贖われた者にはすべてのことが許されている。しかしすべてのことが益となるわけではない。自分自身にとって益となる場合でも、キリストの体としての教会に害となるなら、また神のみ名を傷つけるなら、その自由を行使しないと決心することが大切である。私たちに与えられている自由は神の栄光のために用いられるべきである。

2014/7/19(土) 担当 高谷由紀子師 ルカ15:1-10  新聖歌 311
 キリスト者は神のものであり、世はサタンの支配のもとにある。従って、世を歩むキリスト者は常にサタンの攻撃にさらされている。そのため多くの危険や困難に見舞われ、死に至ることさえる。しかし、サタンの力はそこまでである、サタンの力は地上に限られている。天地を貫いて権威を持っておられるお方、殺した後で地獄に投げ込む権威を持っておられるお方は神だけである。この神は、五羽が二アサリオンで売られている雀さえもお忘れにならないお方である。まして雀よりもはるかにまさった存在であるあなた方をお忘れになることはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられているほどにあなた方を御心に止めておられるお方である。真に恐れるべきお方はこの方である。”,,1184″