2014/7/28-8/2
- 2014.07.28
- ディボーションの友
2014/7/28(月) 担当 高谷清師 ?コリ9:1-2 賛美 聖歌 355
弱い人々を害してまで自らの権利を主張してきた「知識を持っている人々」―利己主義者―の誤りを指摘したパウロは、自分自身の歩みについて語る。小畑進はパウロの人柄について「パウロは事実を報ずるだけの新聞記者ではありません。理屈を並べたてるだけの教授ではありません。人のやった事を云々するのみの評論家ではありません。パウロは、事実を確認し、教理を述ベて、自ら率先垂範し、人々の批評の俎の上におのれをのせる人物です。すでに、コリント人の利己主義を指摘して、弱い兄弟たちのためなら自分の自由な権利をも放棄する決意をもつ彼は、自ら、「今後いっさい肉を食ベません」と、おのれの身を投じたのでした。模範は講義よりも人心に銘ずること強力かつ鮮烈です。それにしても、コリントの弱い人々のために、肉食の自由を放棄する使徒は、ただに筆の先や舌の先で事を片づける伝道者ではなく、おのれの身を切り詰める伝道者として、強く追ってきます。そして、「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです」〈マタイ18:8〉という主の御言葉の具体化のような人だったのです。(コリント人への手紙第一提唱P362いのちのことば社)」と語っている。み言葉を語るだけではなく、み言葉を生きる者となろう。
2014/7/29(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上21:1-13 賛美 新聖歌427
ダビデは人口調査を行った。国を治めていくうえで人口調査は必要であった。人口調査によって税金の徴税額の概算を知ることができる。また労働力を把握することができ、さらに徴兵に応じることができる者の人数を知ることもできる。どれも統治者にとっては必要なデータである。ダビデはこの時、戦うことのできる男子を数えようとした。これは神の許されることではなかった。この命令を受けたヨアブは王を思いとどまらせようとしたが王の心は変わらなかったので、自らの判断でレビ人とベニヤミンの調査をしなかった。レビ人は律法において兵役から除外されていた(民数記1:49)。またベニヤミンは歴代誌において特別に重要な部族であった。ヨアブは自分の立場においてできる限りのことをした。しかしダビデはこの罪ついて責任を負わなければならなかった。統治者として常識的なことがどうしてこれほど大きな罪とされたのだろうか。それはダビデの家を確立すると約束してくださった神に完全に信頼を置かなかったからである。神の守りに頼るのではなく、自ら兵士の数を数えて戦に備えようとしたからである。
私たちも一般社会に生きている。社会の中での慣習と常識をもって生きることは大切であるし、必要なことである。しかし、あらゆるときに人の方法に従っていればよいというものではない。社会のルールを踏まえつつ神の導きを見分け、常に知恵によって神に従う道を歩んでいきたい。
2014/7/30 (水) 担当 高谷清師 ?コリ9:1-2 賛美 新聖歌 390
小畑進はさらに言葉をつないで「そして今、この他者のための権利放棄にちなんで、使徒はさらに自分の秘密を打ち明けることに踏みきるのですが、ここに私たちは、はしなくも使徒が内に秘めて黙々と歩んで来ていた驚くべき他者への遠慮・配慮のほどを聞くことを得て、いっそう、その偉大なキリスト者的志操に胸打たれるのです。パウロは巡回伝道者でしたが、決して厚顔無恥・無礼鉄面皮な〃伝道屋〃ではなく、あくまでも細心綿密なキリスト者らしいキリスト者でした。申すまでもなく、パウロほど自由人の名に値する者はなく、その上に聖なる使徒でもありながら、その自由の特権を行使することを控え、常に人々の建徳のためにおのれを提供し、伝道地においてさえ、あえて、報酬を求めずに、自ら自給伝道した苦心・苦哀のほどが、この九章全体にわたって披露されるのです。その内剛外柔の錦心繍腸のほどは、私たちをして衿を正さしめるものがあります。(コリント人への手紙第一提唱P363いのちのことば社)」と述べる。前世紀半ば、ある著名な大衆伝道者が伝道大会を開くにあたり、当該地区の教会に対し協力を呼びかけ、「教会の大小にかかわらず、地域の救いのために全教会が協力しましょう」と語られた。後日耳にしたところによると、自分の所属する団体内においては「開拓教会は少なくとも教会規模が30人に達するまでは自分の教会に専念しなさい。協力伝道などに参加してはいけません」と語っておられたそうである。これを聞いた時、今日の日本の教会の不振の原因の一つを見た思いであった。社会は鋭く真偽を見分ける。私たちは、いかなるときにも、誰に対しても真実でなければならない。
2014/7/31(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上21:1-13 賛美 新聖歌341
火曜日に続いて同じ箇所を読みたい。この出来事はサムエル記にも記されているが、サムエル記では神がダビデを誘ったのであって、サタンの仕業ではなかった。しばしばサタンに誘惑されたということを読むときに私たちはサタンの働きに対して大きな恐れを抱き、捕らわれてしまう。しかしここでの「サタン」は新約聖書で語られる人格と力を持った存在としてのサタンとは異なる意味を持つことを理解しなければならない。旧約聖書で「サタン」という言葉が使われるとき、それは固有名詞として限定された(冠詞を持つ)一つの存在を指すのではなく、数多く存在し得る敵対者達という意味である。実際この箇所でも新約聖書におけるサタンの意味を示すための冠詞はついていない。もちろんそれ故に霊的な存在であり、神に敵対するサタンが全く存在しないということでは決してない。しかしこの箇所を読むときにサタンという言葉にとらわれて大きな恐怖に支配されることはないのである。
神を信じる人々の信仰に挑戦するあらゆる敵対者は現代も存在する。そして彼らの言葉に耳を傾けて神のことばに背いてしまうことも起こりうるのである。この時代にあって正しく霊の働きを見分け、神が与えてくださった霊の武具によって適切な歩みを続けよう。また実際に私たちの周囲にも敵対者たちが存在することを忘れず、主とともに歩もう。
2014/8/1(金) 担当 高谷清師 ?コリ9:1-2 賛美 新聖歌 264
パウロは「わたしは自由な者ではないか」と語る。主イエスは自分を信じたユダヤ人に対して「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする(ヨハ 8:32)」「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる(ヨハ 8:36)」と語られた。パウロは罪からの解放「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です(ロマ 6:22)」、罪の報酬である死からの解放「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです(ロマ 6:23)」、律法の文字からの解放「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです(ロマ 7:6)」、国境・民族・性別・身分からの解放「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです(ガラ 3:28)」等について語っている。そして「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません(ガラ 5:1)」と警告する。主の贖いの恵みによって与えられた自由の中にとどまろう。
2014/7/19(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ16:14-18 新聖歌390
復活された主は弟子たちに世界宣教を命じられた。それに伴う約束を与えられた後、神の右の座につかれた。地上に残された弟子たちはイエスが命じられた通りに出かけて行っていたるところで福音を宣べ伝えた。主の約束の通り、常に弟子たちが主の名によって語る時にここに記されている「しるし」が顕された。これによって弟子たちの言葉が真実であることが示された。
私たちもまたこの時代に生きる救いの御業の証人である。日々の生活において確信を持って主を証ししよう。主はその証が真実であることを示し、信じる者を起こしてくださる。”,,1113″
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