2014/8/4-9
- 2014.08.04
- ディボーションの友
2014/8/4 (月) 担当 高谷清師 ?コリ9:1-2 賛美 新聖歌 38
続いてパウロは「使徒ではないか」と語る。パウロが『あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているとのことです(?コリ1:12)』と記しているように、コリント教会の人々はパウロ派、アポロ派、ケファ派・・・・・と言うように分派を作り、互いに対立していたのである。そしてパウロが自らについて「使徒ではないか」と語った背景には、パウロの去った後コリント教会に入り込んだ教師がパウロの使徒権を批判した事実があったであろう。たしかに、パウロは地上を歩まれた主イエスと寝食を共にし、そば近く仕えた者ではなかった。ここで主イエスの使徒選定についてみると「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった(マコ 3:13-15)」と記されている。使徒とは、主によって召され、任じられ、宣教のために遣わされるものである。パウロについてみると『サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである(使9:4-5)』、『すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である(使 9:15)』と記されている。パウロは主に召され、任じられ、宣教のために遣わされた者―使徒であった。その証明はコリントの教会の人々自身であった。これは今日の私たちにとっても大きな意義を持つ、即ち信仰の立脚点を確かなものとする。
2014/8/5(火) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上21:7-13 賛美 新聖歌209
ダビデが命じた人口調査が行われたとき、神はそれに対して怒り、イスラエルを撃たれた。ダビデはガドを通して告げられた三つのことの中から三日間の疫病が起こることを選択した。ダビデが「主の御手にかかって倒れよう」(20:13)と言っているとおり、彼は自分だけが死を免れようと考えたわけではない。預言書などを読むとイスラエル周辺の異国に対する裁きの言葉が記されている。その中でしばしば書かれていることは神がイスラエルを裁くために選ばれた諸国がその分を越えて傲慢になり、必要以上にイスラエルを苦しめたということである。確かに人間を通しての神の裁きを受けるときに、執行者が神の意志を越えて裁きを受ける者を苦しめる。ここに人間の残忍さと罪深さが見える。ダビデは神の罰を回避しようとしてはいない。むしろ神から直接正当な裁きを受けることを表明した。そして裁きを受ける時にも神の憐れみにすがったのである。
神は悪をなす者に対しては正当な裁きを行われる。それと同時にその悪をなした者に対する愛をなくされる方ではない。私たちも決して意図してではないが、ダビデのように正しい道からそれてしまうことがある。神がそれを教えてくださった時には悔い改め、神の前に出て神との正しい関係に立ち帰りたい。どんな時でも神は憐れみ深いお方である。
014/8/6 (水) 担当 高谷清師 ?コリ9:3-14 賛美 新聖歌 156
パウロは申命記の「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と言う御言葉を引用する。イスラエルでは脱穀作業に牛が用いられた。律法はこの作業に携わっている牛に口籠をはめることを禁じていたのである。即ち、脱穀作業についている牛はその穀物を自由に食べることが出来たのであって、人はそれを妨げてはならなかったのである。パウロは「神が心にかけておられるのは、牛のことですか。それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです」と語って、宣教者はその働きの実りである教会から生活の資を得るのは当然であることを明らかにする。今日の教会を見ると、ある部類の教会は宣教者の報酬が、その経歴、職責等を社会の一般水準から見るとき、極めて低く抑えられているように見える場合がある。他の場合には「宣教者と自称する者」の巧みな言葉によって、聖書が示す範囲を超えて「献げもの」を要求され、その結果「宣教者と自称する者」は肥え太り、信徒は貧困生活を強いられている現状がある。これは終わりの日の主の裁きに委ねよう。私たちは主のみ前に誠実に歩もう。
2014/8/7(木) 担当 ラウジー満世師 歴代誌上21:14-22:1 賛美 新聖歌282
ダビデの選択に応えて神は疫病によってイスラエルを撃たれて七万人が倒れた。しかし憐れみ深い神は思い直されて御使いに手を下ろすよう命じられた。ダビデが御使いの言葉の通りに祭壇を築いてそこでささげた献げ物をささげた時、主は火を送ってそれを受け入れて下さった。ここにダビデは神の慈しみを体験したのである(21:26)。オルナンの麦打ち場にはすでに裁きの執行者である主のみ使いが立っていた(21:15)。その裁きの場において同時に主の慈しみが示されたのである。そしてこの場所が新たに主の神殿が築かれる場所に定められる。礼拝は主の臨在の中で行われる。その臨在は主の慈しみと優しさだけが表れたものではない。
私たちは主の祝福と優しさだけを体験したいと願う。しかし、神の愛は厳しさと正義にも表れている。恵みだけが語られるとき、私たちは気を付けなければならない。神の愛は厳しさの中にも示され、私たちを義の道へと導くのである。
2014/8/8(金) 担当 高谷清師 ?コリ9:3-14 賛美 新聖歌 399
パウロは宣教者がその実りである教会から生活の資を得ることは正しいことであることを明らかにした。そして多くの宣教者たちはそのように行っていた。しかしパウロはコリント教会から生活の資を受けず、自らの労働によってそれを得ていた。パウロの使徒権を否定する者たちはこれをもって、パウロがまことの使徒でないことの証しであると考えた。彼らはパウロが自分の資格不足を認めているのだと考えたのである。これに対してパウロは「わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます」と述べる。パウロは先に「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」と言って兄弟をつまずかせないために自由を用いることを放棄したように、福音を妨げないために権利の行使を放棄し、耐え忍ぶのである。私たちがキリストにあって与えられている自由と権利はしっかりと守らなければならない。しかしその行使は福音の前進のために節度をもってなされるべきである。
2014/8/9(土) 担当 高谷由紀子師 ?ペテ1:23-25 新聖歌 316
季節ごとに種々の色鮮やかな美しい花が咲き誇っています。しかし、この美しさもしばしのもの、やがて萎れ、枯れてしまいます。この自然の移り変わりを見ながら、聖書の言葉に思いをよせます。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。私たちは罪と咎によって死んでいた者でしたが、キリストの尊い贖いの恵みによって永遠の命を与えられました。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」と記されているとおりです。永遠に変わることがない神による命を与えられていることを感謝しつつ、日々前進しましょう。”,,1059″
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