2013/4/22-27

 

2013/4/22(月)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙12:12-13 賛美 新聖歌445・聖歌615
 著者は「足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」と勧める。癒しの証しを聞いて信じ、自らも癒しを体験した人が再び病に罹るとか、証者が死を迎えるといった試練に直面した場合、しっかりと御言葉に立っていなければ信仰の動揺をきたすのである。その動揺は信仰の弱い人々を巻き込んでいくことになる。
 信仰による肉体の癒しを信じるのであるが、しかし肉体をもって生きる者には肉体の死は必定である。わたしたちの罪を負って十字架に架かり、血を流し死んでくださることによって罪の贖いを成し遂げ、復活によって死に勝利し、信じる者に与えてくださった永遠の命は、肉体の生死を貫いて確実である。周囲に吹きすさぶあらゆる試練の嵐の只中においても堅く御言葉に立つ時、多くの人々の信仰をも守るのである。
 

 

2013/4/23(火)担当 高谷満世師 列王記上9:6-9 賛美 新聖歌446 聖歌632
 9章1節から、主が現れてソロモンに語られた言葉が記されている。前回読んだ1-5節までには、イスラエルが神の言葉に対して忠実であれば、祝福を受けるという喜ばしい約束が語られていた。私たちもこの部分を喜んで受け取る傾向が強い。しかし、その後半の部分を決してないがしろにしてはならない。6節から9節では厳しい言葉が語られる。もし神の民がその掟を守らず偶像礼拝に陥るなら、神はイスラエルを捨て去られる。そして民自身が嘲られるだけではなく、主に対してまで疑問を抱くのである。それは神の民自身も同じかもしれない。「どうして神はひどいことをされるのか?実は神は全能ではなかったのか?」と。しかし9節に記されている、民自身が主を捨てたからその罰として主が災いを下されたという厳しい言葉を現代に生きるクリスチャンは目をそらさずに受け止めなければならない。
 祝福が約束されていることはそれ相応の責任を伴うのである。その責任は神に従うことである。それを棚に上げて、不都合について神を攻める信仰生活を送ってはならない。
 

 

13/4/24 (水)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 ヘブ12:14 賛美 新聖歌372・聖歌553
 「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」と勧められている。パウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(エペ 2:14-16)」と述べているように、私たちはキリストによって神との平和を得、互いの平和を得た。しかし現実生活においてキリスト者同士の間にも多くの不和が存在する。地上生活においてはキリスト者同士であっても利害の対立することが多いからである。パウロは「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている(?コリ6:7-8)」と言っている。主イエスに倣って自らを無にすることによってのみ可能である。
 

 

2013/4/25(木)担当 高谷満世師 列王記上9:10-28 賛美 新聖歌390 聖歌511
 ソロモンの40年間の治世の中の前半20年間の事業について述べられている。ソロモンはその間、知恵をもって国内に起こった経済的な問題、他国民との関係についての問題を扱っている。
 ヒラムはソロモンの神殿と宮殿建築について多くの資材を提供した。それに対してソロモンが贈った町々は経済的にはヒラムが満足するものではなかった。しかしソロモンは一見否定的に見える領土の提供という形を用いて、ヒラムに対する経済的な負債を支払うことが出来た。さらに外国人に対する労働のことが記されている。これは決して外国人であれば恒久的に奴隷として扱うことを奨励しているものではない。本来イスラエル国内の外国人は滅ぼしつくされるべき存在であった。しかしソロモンはこの強制労働によって、彼らの命を奪うことなく、神の命令に答えたのである。
 ソロモンはその治世を見ても知恵をもって神の言葉に従って国を治めたのである。私たちも日々の生活においてあらゆる面で神の知恵によって委ねられたものを治めよう。
 

 

2013/4/26(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:12-13 賛美 新聖歌459・聖歌516
 「すべての人との平和を」と言った後に「また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません」と言われていることに注意しなければならない。先日はキリスト者として信仰を同じくする人々との平和について考えたが、今回は不信者との生活について考えよう。もちろん、相手が不信者だからと言ってことさら争う必要はない。できる限り平和に過ごすべきである。しかし、キリスト者は平和に過ごしたいからと言っても、罪を容認することはできない。聖なる生活を追い求めなければならない。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできないからである。著者は先に「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません(ヘブ 12:4)」と述べた。平穏無事に過ごしたいからと言って罪と妥協してはならない。
 

 

2013/4/27(土)担当 高谷由紀子師 マルコ12:13-17 賛美 新聖歌391 聖歌541
 イエスを試み、陥れようとして、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」(14節)と問い詰めた。
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは返しなさい。」(17節)とイエスは答えられた。この回答はイエスの素晴らしい、驚くべき知恵を表している。この世で生きるキリスト者の、世に対する責任と神に対する明確な態度との葛藤という難問を主は見事に解決された。クリスチャンもこの世の制度に対して責任を果たさなければならない。
 私たちもこの世で生きてゆくうえで、生活のために従うべき社会のルールがある。同時に信仰者として永遠の命を得る霊的な生活と神の国の原則もある。その中で、知恵をもって歩んでいかなければならない。