2013/4/15-20

 

2013/4/15(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:5-11 賛美 新聖歌7372 歌553
 続いて著者は「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。 神は、あなたがたを子として取り扱っておられます」と述べる。更に「いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか」と語りかける。妻と結ばれ、子供が与えられ、父となり母となった者は誰でも、その子は目に入れても痛くないと表現されるほどかわいい。しかし思慮深く、健全で円満な判断をする人ならだれでも、その子を懲らしめ鍛錬する。生来の肉欲のままに生きることを欲する子にとっては、鍛錬は喜ばしいことではない。楽しいことではない。しかし後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのである。
 

 

2013/4/16(火)担当 高谷満世師 列王記上8:54-66 賛美 新聖歌501
 神殿奉献において祈りを献げたあと、ソロモンは会衆に対して語りかける。その言葉はやはり、神への賛美から始まる(56節)。イスラエルの神は民に約束を与え、その約束を確かに守られた主であった。神が約束された言葉は一つとして軽く扱われたり、むなしくされたことがなかった。かつてイスラエルを祝福された主は、ソロモンの時代にも共に居てくださる。
 祈りの中でソロモンが神の祝福を求めたときには、「イスラエルの民が神の掟に従って歩むならば祝福してください」という条件がつけられていた。この条件はいつの時代にも人間にとって大変なものである。神の言葉にしっかりと従いたいと思いつつ、出来ないのである。自分の努力では限界に直面する。しかし、この箇所によると、神ご自身が民の心をご自分に向けさせ、戒めと掟を守らせてくださいと祈ることも許されており、その祈りを主が聞いてくださるのである。
 自分の力だけで正しく歩む必要はない。出来ないで苦しんでいるその課題を主に訴え、従う力すら与えてくださいと祈る特権を私たちは与えられているのである。
 

 

13/4/17 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:5-11 賛美 新聖歌415・聖歌574
 続いて著者は「もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません」と述べる。これは厳しい言葉である。カルヴァンは「使徒が、だれでも十字架を逃れようとする者は、神の子となる権利を放棄したのであり、いわば神の子らの数から取り除かれたのである、と結論しているのはもっともである。そこで、私たちが神の笞を逃れようとするとき、私たちは神の子とされることの特別な恵みを正しく評価しないで、神の恵みをすっかり放棄したことになるのである。苦難を忍耐づよく耐え忍ばない人々はみなこのことを行なっているのである」(カルヴァン新約聖書注解??P269)。信仰生活において試練を避けようとする人々は、その行為によって神の恵みを放棄していることをしっかりと認識すべきである。試練がやってくる時、それを真正面から受け止め、信仰により、祈りによって神による勝利を得る者となろう。
 

 

2013/4/18(木)担当 高谷満世師 列王記上9:1-5 賛美 新聖歌392・聖歌578
 ソロモンが祈り終えたとき、かつてのように再び主の臨在が顕された。神は確かにソロモンの祈りを聞き、その神殿を選び、そこにとこしえに住まわれる。神が心を寄せられるのである。心強い約束である。
 しかしここでも神の約束は無条件では終わらない。4節から5節はソロモンに示された条件を再び明言している。律法に対する服従か不服従かという課題は列王記において常に現れる。ソロモン個人に対して求められる、神に対して正しく歩めという命令は、国全体に関わる結果を引き起こす。ソロモンはダビデ王朝の王としてかつてダビデに求められたのと同じ服従を神に対して求められる。
 約束を与え、それを永遠に守られる主は、その約束を受け取る人に対しても神に対して常に従順であることを求められる。私達が十字架によって神の子とされた、その権利を主張するときに、私たちもまた真実な神から求められている「従順であれ」という命令に対して忠実かどうか、しっかりと神の前に立つ自分を見つめよう。
 

 

2013/4/19(金)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:12-13 賛美 新聖歌445・聖歌615
 私たちが信仰生活において試練に遭遇し、それが長期間に及ぶ時、自分は神様に見捨てられたのではないかといった思いが心をよぎり、絶望の淵に叩き込まれたようにさえ感じることがある。加えて、試練の中を歩むヨブがそうであったように、周囲の人々の白眼と非難が押し寄せるのである。しかし著者は、試練が神の愛によるものであり、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのであることを示した。また、試練の中にある時、神は私たちの近くにあって見守っていてくださるのである。それ故著者は「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」と勧める。試練の中にある方々、一歩歩いては倒れ、二歩歩いては転ぶ幼児を見守る両親のように、私たちのそばにあって愛の眼差しで見守っていてくださる主を見上げ、忍耐して歩もうではありませんか。
 

 

2013/4/13(土) 担当高谷由紀子師 ルカによる福音書 12:13―15 賛美 新聖歌315・聖歌503
 金銭は人間が社会生活をしていくうえでなくてはならないものの一つである。それ故、金銭至上主義の生き方をする人が現れてくる。このような人々を世間はエコノミック・アニマルと呼ぶ。これはお金さえあればどんなことでも出来る、お金の力が第一と考え、ただ経済的な利益のみを求めて行動する生き方である。
しかし人間はお金だけで生きていける者ではない。聖書は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることも出来ないからである(15節)」と記しています。富を積むことが必ずしも悪ではないが、富が増すに従って人間の心は神を離れやすい。すなわち富に心を奪われて神の国と神の義を忘れ、貧しいものを思いやる心を失い、富を頼りとして神に頼らず、平安を富に求めて神にある平安を忘れる。キリスト者はイエス・キリストの尊い贖いによって永遠の命が与えられている。信仰に立って日々を歩みましょう。