2017/9/18-23

2017/9/18(月) 担当 高谷清師 ヨハネ5: 41-44 賛美 聖歌 399
 主は「わたしは、人からの誉れは受けない。」と語られる。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。」(ヨハ 5:36)と語られたように、ご自身を遣わされた神の御力によって御業を行い、神の栄光をあらわされた。そして「わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。」(ヨハ 8:50)と語り、更に「イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。」(ヨハ 8:54)と語られる。主イエスは自らの栄光を求めず、ただ父なる神の栄光を求められたのである。私たちも神の栄光のためにのみ、生きよう。

2017/9/19(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書9:9-15  賛美 新聖歌427
 既に繰り返し語られている裁きの言葉である。北から襲い来る敵を目の前にしている民は、まるでそのことが何故起こったのか、全く考えが及ばない様子である。そのような人々に対して「知恵ある人はこれを悟れ」(9:11)と語られる。裁きの渦中において、その裁きの理由を彼らは理解できるはずである。それはすでに何度も語られている。主の教えを捨て、主の声に聞き従わなかったからである。神とイスラエルとの関係において最も基本的なことであった。ひとたび神に従うと決意し、約束したならば、その瞬間から聞き従いなさいと求め続けられるのである。
 神に従うという信仰告白をしながら、神の御声と御心を求めず、相変わらず自分の声と願いに従っていないだろうか。神の声を聞かずに歩みながら、どうして私には神の祝福がないどころかむしろ不幸や災難ばかりが起こると嘆いていないだろうか。神との関係を正すことが求められている。

2017/9/20(水) 担当 高谷清師 ヨハネ 5: 41-44  賛美 新聖歌 222
 イエスが人からの誉を受けられないのは、彼らの内に神への愛がないことを知っておられるからである。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。」(ヨハ 14:10)と語っておられるように、イエスの内に父なる神がおられ、神の愛が満ちているのである。しかし彼らは父の名によってこられたイエスを受け入れず、殺害しょうとしているのである。それはヨハネが「愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」(?ヨハ 4:8)と述べているように、彼らがイエスを知らず、イエスに誉を帰することが出来ないのは彼らが神に対する愛を持っていないからである。常に神の愛に満たされて歩もう。

2017/9/21(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書9:15-14  賛美 新聖歌262
 女たちの嘆きの歌を通して、民が直面する神の裁きのさらに厳しい現実へと向き合わされる。「死は窓に這い上がり/城郭の中に入り込む」(9:20)。死が擬人化され、町の中に入り込んで人々を呑み込んでいくように描写されている。最終的には年齢や性別を問わず、多くの人々の死体があらゆるところに倒れている様が描かれる。罪を犯し続けるなら、その結果は死である。
 クリスチャンは神の前に罪を告白し、悔い改めて赦されたのだから、その後で神に背き続けてもイスラエルのようになることはないのだろうか。しかし、私たちは神に従うことを日々求められている。罪を赦されて神と共に歩ませていただいている恵みと共に、そこには神と共に歩む者として主の声を聞き従う責任も伴っていることを忘れず、歩もう。最終的にエレミヤの時代のイスラエルのように神の裁きとしての死を体験する前に。

2017/9/22(金) 担当 高谷清師  詩編34:16-23 賛美 新聖歌 355
 ダビデは「主に従う人には災いが重なる」と語る。人は、救われたなら病気やけがや災いに遭うことがなく、対人関係が円滑になり、経済的には祝福されて人生万事うまくいくと考える人々がある。しかし主は「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16: 33)と教えておられる。またアナニアに示されたパウロに関する言葉では「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」(使 9: 16)と語られている。さらにパウロは「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。」(?テモ3: 12)と述べている。キリスト教史上においても多くの人々が信仰の故に苦難に遭い、殉教の死を遂げた人々も多い。信仰者の幸いは、常に神のみ傍近くにいることであり、生ける神の助けを体験することである。

2017/9/23(土)担当 高谷由紀子師 エフェ 6:1-4 賛美 新聖歌 390
 この箇所では親子関係について教えられています。子供達に対して、第一に「主に結ばれている者として両親に従いなさい。」と教えています。これは神によって立てられている両親に、神への畏れによって従うことを教えているのです。続いて「父と母を敬いなさい。」と命じています。これはモーセを通して与えられた命令であって「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束を伴っています。父親たちに対しては「子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」と命じています。父親は、子供はその養育を神によって託された存在であることを認識し、自分の思いのままではなく、神の御心によって教え導くべきことを命じているのです。常に神への畏れをもって、神の御心を求めつつ教え、育てましょう。”,,690″