2012/10/15-20

 

2012/10/15(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:11-12  賛美 聖歌428
 旧約の祭司は毎日犠牲をささげて神を礼拝した。彼らはその聖務遂行中は決して座らず、立ち続けていた。このことはその犠牲によって神に近づく人たちを完全な者にすることはできず、即ち、礼拝者の罪を取り去り,永遠に良心をきよめることができず、従って犠牲が繰り返しささげ続けられなければならないことをあらわしている。一方キリストはご自分を犠牲としてささげられた後、神の右の座に着かれた。これはキリストの犠牲によって贖いの御業のすべてが完成したことをあらわしている。御子は再びご自身を犠牲としてささげる必要はない。すでに、永遠に救いの御業は完成しているのである。
 わたしたちが日々の生活の中で不本意に罪を犯してしまった時サタンは「仏の顔も三度までと言うだろう。罪赦された後三度罪を犯したおまえはもう駄目だ」と責めるのである。しかしヨハネは「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます(?ヨハ1:9)」と述べている。さらに主は「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と問うペトロに対し「「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい(マタ 18:21-22)」と答えておられる。主の十字架の血潮の赦しは無限である。どんな時にも主により頼んで歩もう。
 

 

2012/10/16 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下12:24-31 賛美441 聖歌543
 ダビデは姦淫によってバト・シェバがみごもった子供のために主に祈り求めたが、その命が取り去られた。その後、この亡くなった子に変わる新しい命が与えられた。ソロモンと名づけられた子は主に愛された。亡くなった子とは違ってこのソロモンは生き延びた。まさにこの事実はその子が神に愛されていることを示している。しかしそれ以上に、このソロモンを通して再び神の恵みがダビデの家に注がれることを私たちに思い起こさせる。
 神はダビデが姦淫と殺人の罪について悔い改めたとき、彼を赦された。しかしそれでもダビデが犯した罪に対してはその報いを与えられた。今このソロモンが生まれたことによって、私たちが犯した罪に責任をもって神の前に生きるべきこと(罪の償いを求められることと)と神の赦しを得て再び主の恵みの中に生きるということが別の問題であることが明示されている。主は心から罪を認めて罪を告白し、悔い改める者を赦し、再び主とともに歩み、主に仕える特権を与えてくださる。
 

 

2/10/17 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:11-12 賛美 聖歌516
 著者は「永遠に神の右の座に着き」と述べる。贖いの御業を成し遂げられた主がつかれたのは「神の右の座」である。これは、キリストのいけにえの価値と人格の尊厳さを物語っている。キリストは十字架の恥辱から、最高の栄光の場にまで高く上げられたのである。そしてキリストは今、神の右の座に在ってわたしたちのために執り成していてくだる。それ故、わたしたちはキリストにあって神のすべての恵みと力に近づき得るのである。これについてパウロは「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます。だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです(エペ3:12-13)」と述べている。
わたしたちはキリストの贖いの恵みに与かりながらも、サタンの支配する世に生きている。そのためいろいろな苦難に遭遇している。しかし主は「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハ 16:33)」と語っておられる。様々な苦難に遭遇する時にもきたるべき御国を望んで耐え、勝利の道を歩もう。
 

 

2012/10/18(木)担当 高谷満世師 サムエル記下13:1-22 賛美292 聖歌543
 ダビデの子どもたちの間で起こった忌まわしい出来事が記されている。当時、未婚の姫は男性の前に出ることがほとんどないように守られていた。最初はタマルに対する思いが届くはずもないとアムノンがあきらめていたのは当然であった。しかしヨナダブに入れ知恵されたアムノンは、それが罪であると知りながら、いとも簡単にこの入れ知恵を受け入れ、罪を犯した。淡々と状況が語られる中で、息子アムノンもまた父ダビデと同じ罪を犯した。この背後において神が下された裁き(?サムエル12:11)が現実となっていくのを見る。
 このことを見るときに私たちは神の言葉の確かさを再び教えられる。神が下すといわれた裁きはやはり実現される。神の言葉を私たちは実現するものとして怖れをもって受け取っているだろうか。神を侮ることなく、主の言葉の力を信じ、また常に主の前に正しく歩ませていただけるよう、祈り求めつつ今日も主とともに歩もう。
 

 

2011/10/19(金) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:13  賛美 聖歌511
 著者は「その後は、敵どもが御自分の足台となってしまうまで、待ち続けておられるのです」と語る。詩篇には「わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう(詩 110:1)」と語られている。このことについてパウロは『次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。最後の敵として、死が滅ぼされます。「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。(?コリ15:24-28)』と述べている。著者は、読者が、著者が10:26-31で語る、故意に罪を犯す者になりキリストの敵となることがないよう警告を発しているのである。どんな時にも主の前に故意の罪を犯すことがないよう慎みをもって歩もう。
 

 

2012/10/13(土)高谷由紀子師 マルコによる福音書 12:41−44 賛美 聖歌541イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れているところに一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。これを見てイエスは、弟子たちを呼び寄せて「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われた。イエスはやもめのささげ物に全き服従と信仰を見ておられた。人はそれぞれ財産や能力に違いがある。多く持っている者や少ししか持たない者がいる。それらはすべて神様から与えられたものであってその多少によって人の価値が決まるのではない。人の価値はその用い方によって決まるのである。心を見られる主の御前に忠実に生きよう。