2012/10/8-13

 

2012/10/08(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:1-4  賛美 聖歌 705
 神は深い憐れみによってイスラエルを選び、彼らに律法を与え、自らの罪のために犠牲の動物をほふり、その血を通して神に近づき、礼拝する道を与えられた。イスラエルの人々はこれによって罪の贖いを得たが、それは前の犠牲の時以前の罪に対してであり、常に罪の記憶に悩まされ続けなければならなかった。旧約における犠牲は人々を完全に罪から解放することはできなかった。この制度は神が私たちの為に備えていてくださる天にあるもの―完全なもの―の写しであり影である。今日、全きお方、御子の恵みにより、完全な赦しの内にあることを感謝しょう。
 

 

2012/10/09 (火)担当 高谷満世師 サムエル記下12:13-15前半 賛美聖歌543
 隠れて行った罪を預言者ナタンにずばりと指摘されたとき、ダビデは謙って罪を認めた。このダビデの姿勢こそがサウルとの大きな違いであった。ダビデはサウル同様に神に対して罪を犯した。しかし両者の違いは罪が指摘された時にそれを認めて悔い改めたかどうかであった。ダビデは悔い改めることができた。それゆえに自ら知らずして死の罰が妥当であると判断したにもかかわらず、神の憐れみによって死の罰を免れた。
 しかし、ここで私たちがしっかり受け止めなければならないことがある。ダビデの罪は赦されたにもかかわらず、生まれてくる子はダビデが「このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから」死ななければならないのである。犯した罪を告白し、悔い改めた時に神がそれを受け入れ、赦し、魂の救いを与えてくださることと、犯した罪によって生じた結果の責任を問われないということは同じことではない。
 私たちは何をしても悔い改めさえすれば自分の罪の結果生じたダメージに対する責任も帳消しになると誤解してはいけない。このように考えるならばさらに神を侮り、畏れる心を失ってしまう。神の前に責任をもって歩もう。
 

 

2012/10/10 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 10:5-7 賛美 聖歌 295
 「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない(?サム15:3)」と言う主の命令を受けて出陣したサウル王が、戦利品を携えて凱旋した時サムエルがサウルに言った言葉は「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる(?サム15:3)」と言うものであった。またイザヤは「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった(イザ 50:4-5)」と語っている。神は,犠牲をそれ自体で何か価値があるかのように求めてはおられのではない。キリストの御生涯は受肉から十字架の死まで神に対する全き従順の生涯であった。わたしたちもまたキリストに倣う者でありたい。
 

 

2012/10/11(木)担当 高谷満世師 サムエル記下12:15後半-23 賛美 聖歌543
 ここでもまたダビデの行動は不可解であり、驚きである。もちろんダビデは罪赦されたことを確信していた。そして同時に罪に対する責任は問われ、子どもの命は奪われるということをしっかりと受け止めていたのである。その上でダビデは神の憐れみにすがり、子どもの命を取り去らないように願った。しかし最終的に神が子どもの命を取られたとき、ダビデは罪の償いがなされたことを知った。ダビデの神との関係において、罪の償いがなされた時に、彼には再び主とともに歩む未来が開かれたのである。
 私たちもまた、神との関係において責任をもって生きることを学ぼう。私たちを愛し、親しく交わりを持ち、語りかけてくださる愛の神は、同時に義の神でもある。神は私たちに責任をとることを求められることがある。その責任を果たさなければならない。そしてそのことを果たした上で、さらに主とともに歩んでいくのである。
 

 

2011/10/12(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 10: 8-10   賛美 聖歌553
 詩 40:7-9 を主イエスがこの世に来られたときの宣言と解釈した著者は、その中に古い犠牲祭儀の廃止の宣告を見ている。神が望まない犠牲は、イスラエルの古い祭儀律法により規定されたものである。しかし今や祭儀律法は、キリストの神の御旨への完全な従順がもたらした新しい秩序により取って代られている。御子の受肉と十字架上の死は神の御心であり、御子は強制されてではなく、自らの意思により、全き従順をもって神のみ旨を成就されたのである。イザヤが「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる(イザ 53:10)」と記しているとおりである。それによっては古い秩序が廃止され、新秩序が確立されたのである。ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです。確信をもって歩もう。
 

 

2012/10/13(土)高谷由紀子師 ヨハネによる福音書 9:1−9 賛美聖歌456
 主イエスの一行が生まれつき目の見えない人と出会いました。その時弟子たちは主に「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」と尋ねました。これに対して主は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。
  わたしたちは病気の人や不運な境遇にある人、困難極まっている人を目にする時、その人が罪を犯したせいではないか、あるいはその人のどこかに欠陥があるのではないか等と考えてしまいます。しかしそれは神の栄光が現れるためであることを信じ、待ち望みましょう。