2013/4/29-5/4

 

2013/4/29(月) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙12:15 賛美 聖歌265
 この節において著者は二つの警告を発している。その第一は「神の恵みから除かれることのないように」することである。聖書はその最後において「この書物の預言の言葉を聞くすべての者に、わたしは証しする。これに付け加える者があれば、神はこの書物に書いてある災いをその者に加えられる。また、この預言の書の言葉から何か取り去る者があれば、神は、この書物に書いてある命の木と聖なる都から、その者が受ける分を取り除かれる(黙 22:18-19)」と警告している。パウロは「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です(?テモ3:16)」と述べている。聖書は神のことばである。その内容は極めて豊かである。多くの人々は自分に都合のよいところは強調し不都合なところは無視しょうとする。しかし聖書は全体が神のことばである故、聖書全体を受け入れ、従うべきである。そうでなければあなたが受けるべき神の恵みから無視した分を除かれることになる。
 

 

2013/4/30(火)担当 高谷満世師 列王記上10:1-13 賛美 新聖歌427 聖歌520
 ソロモンが神殿を建て、神に奉献したとき、神は御臨在を現された。それに続いてシェバの女王の来訪を通して神がソロモンに与えられた驚くべき知恵と富について記されている。
 シェバの女王は彼女の国でソロモン王についてのうわさを聞き、半信半疑でソロモンのもとを訪れた。それはソロモンを「試す」ためであった。当初は決して好意的ではなかったこの女王もソロモンと会い、話をする中で確かに神がソロモンに与えられた驚くべき知恵と豊かな富を知り、認めざるを得なかった。さらに女王はソロモンを賞賛するだけではなく、ソロモンをイスラエルの王とした主をも賛美している。
 神は信じる者たちに豊かに祝福を注がれる。それは知恵であり、富であり、知識であり、さまざまな賜物がある。祝福を注がれた者はそれが自分の名誉のためではなく、それを通して神の偉大さが示され、人々が神を賛美するためであることを常に覚えたい。そしていつも人々が自分を通して神の栄光を見るようにと願い、謙遜に歩みたい。
 

 

2013/5/1 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 12:15 賛美 新聖歌225・聖歌447
 第二の警告は「苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい」と言うものである。今、播州地方においては夏野菜の植え付けのシーズンである。ホームセンターでは駐車場の一部までにも野菜苗が並べられ、多くの人々がそれを買い求めている。野菜苗を植え付ける者は、畑をよく耕し、雑草はすべて取り除き、植え付けるのである。しかし雑草は生え出で、放置すると野菜の収穫は著しく減少する。それ故、人はよく注意しこまめに雑草を取り除く。わたしたちの心も、真実をもって悔い改め、救い主を信じたつもりでも、注意を怠ると苦い根が現れ、自らを悩まし、多くの人々を汚すことになる。モーセが「今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない(申 29:17)」と警告しているとおりである。日々祈りをもって苦い根を断って、前進しょう。
 

 

2013/5/2(木)担当 高谷満世師 列王記上10:14-29 賛美 新聖歌238 聖歌428
 知恵に満ち、富を有するソロモンの王国はどこから見ても順風満帆である。近隣諸国からはソロモンの知恵を聞くために人々が次々と訪れ、国庫は潤い、まさに繁栄の極みであった。神に祝福され、へりくだって神とともに歩む人の祝福に満ちた歩みが模範のように記されている。
 しかし、私たちが御言葉を注意深く読むならば、実はこの繁栄の絶頂にあって危険が芽生えていることがわかる。申命記では「王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。「あなたたちは二度とこの道を戻ってはならない」と主は言われた。」(申17:16)と主が語られていたのである。これに反してソロモンはエジプトから馬を買い入れている(申10:29)。
 神に対して謙遜で、従順であったがゆえに祝福を受けてきたソロモンも、やはりその繁栄の中で主の御言葉に従いとおすことが困難であった。そして、やがて国が崩壊していくその発端は人々の目に触れず、ソロモン自身も気付かないような繁栄下におけるわずかな不従順にあったのである。
 

 

2013/5/3(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 12: 賛美 聖歌501
 著者はここで、神の恵みから除かれた者の例としてエサウについて語る。エサウは、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したのである。彼は物質的または肉欲的な利益を霊的な遺産に優先させたのである。それ故彼は「俗悪な者」と呼ばれている。更にエサウは母リベカと弟ヤコブの奸計によって祝福をも失うのである。これを知ったエサウは「…この父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」(創 27:34)」と祝福を求めたが、事態を変えてもらうことができなかったのである。
 信仰の生涯においては様々な場面に遭遇する。その時、私たちはしっかりと信仰に立たなければならない。先の大戦中、日本の教会が権力と妥協したことは、主の御心に適うものであったのか。人は「教会の存続のためにはやむを得なかった」と言うかも知れない。その場合、「信仰」は? 日本が復古色を深める中、危機に立たされた時、御言葉に堅く立ち、祈り、聖霊の導きに従って行動するものとなろう。
 

 

2013/5/4(土)担当 高谷由紀子師 ルカによる福音書18:9-14 賛美 新聖歌196・聖歌256
 ファリサイ派の人は他の人たちの生活を見て、自分の方が彼らよりもがいくらか正しいことを確認して安心しています。となりの徴税人を見下して、「この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈るのです。ファリサイ人は神の御前で自分を中心にしか見ず、他人と比較して自分のほうが絶対に正しいとしか見えないのです。神の光に照らされない限り自分の本当の姿は見えないのです。ファリサイ人の祈りは自画自賛の独り言です。神に対する祈りではないのです。そして彼らは白く塗られた墓のようで、外面は立派に見えてもその心の中はさまざまな汚れと悪とで満ちています。それとは対照的に、徴税人の祈りは真実と謙遜をもって神の御前で自分を低くして、神の憐れみを求める祈りです。彼は自分の罪を認め、悔い改めているのです。
 主は誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められると言われるのです。