2013/7/15-20

 

2013/7/15(月)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:20-21 賛美 新聖歌238・聖歌428
 著者はこの箇所で神を「平和の神」と呼んでいる。パウロも神を「平和の神」(?コリ13:11)、「平和の源である神」(ロマ 15:33・16:20)と呼んでいる。またパウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました(エフェ 2:14-16)」と述べている。この箇所はユダヤ人と異邦人について述べた箇所であって、ヘブル人キリスト者にとっても重要な意味をもっていた。実に、神は平和を例示されるだけでなく、平和を創出されるお方である。
 今日において「平和」は人類の重要な課題である。特に日本においてはこの時期から敗戦の日に向けて平和運動が繰り広げられる。それを見ていると「平和運動」を催す団体同士が争ったり衝突したりする。人間を源とする「平和運動」によっては平和を実現することはできない。三浦綾子氏は「わたしはとの本を読んで、単なる平和論では、ほんとうの平和が来ないのを感じた。ほんとうに人間の命を尊いものと知るなら、一人一人の胸の中に、残虐な人間性を否定させる決定的な何かが必要だと、わたしは思った。それをわたしは、やはり神と呼ぶより仕方がなかった。」(新潮文庫「道ありき」P118)と記しておられる。真の平和はキリストの十字架による以外には無い。
 

 

2013/7/16(火)担当 ラウジー満世師 列王記上18:30-40 賛美 新聖歌410 聖歌564
 バアルの預言者たちは大騒ぎをして祈ったが、その祈りはバアルには届かなかった。稲妻の神であるはずのバアルからは火は下されなかった。長時間にわたるバアルの預言者達の祈りの後でエリヤが立ち、真の神に祈り始めた。
 このエリヤの祈りはバアルへの祈りとは対照的であった。火を点火する条件はバアルのときのほうが良かった。エリヤはわざわざ祭壇に水を注ぎ、悪条件を作り出してから祈りをささげた。バアルの預言者たちは熱狂的に大騒ぎをし、体を打ちたたいて派手に訴えたが、その祈りは届かなかった。一方エリヤは悪条件の中で大騒ぎをすることなく、主の御言葉に従って祈っていることを神に訴え、冷静に祈りをささげた。ここには過度な興奮や喧騒はない。しかし心から神に信頼し、神の約束と導きに基づいた確かな信仰がある。
 私たちは大声で祈り、叫び声や派手な動きがある祈りが神に受け入れられると誤解していないだろうか。もちろん霊に導かれて声を上げて祈り、動きが伴うことがある。しかし、あらゆる祈りがそのようでなければ聞かれないというものではない。祈りにおいて不可欠なことは神への信仰と神の言葉に対する確信である。心を込めて祈ろう。
 

 

2013/7/17 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙13:20-21 賛美 聖歌273
 更に著者はわたしたちの主イエスについて、平和の神が「死者の中から引き上げられた」と述べている。これについてパウロは「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです(ロマ 1:3-4)」と述べている。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタ27: 46)との悲痛な叫びを残して息を引き取られた主を父なる神は大能をもってよみがえらせてくださったのである。ダビデが「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます。(16:10-11)」と歌っているとおりである。ある方が「死を命に変えるものでなければ全ては空しい」と言う意味のことを記しておられるが、主なる神だけが、死を命に変えることができるのである。
 

 

2013/7/18(木)担当 ラウジー満世師 列王記上18:41-46 賛美 新聖歌343・聖歌593
 18章のはじめに短く、神が雨を降らせると記されている(18:1)。17章でエリヤが登場したときから旱魃については記されていた。18章でははじめにエリヤとバアルの預言者達の対決について語られ、それに伴い人々への信仰の選択と決断を迫ることが問われる。このことを通してイスラエルの神こそが真の神であると示された直後にエリヤが再び雨について言及する。
 エリヤは雨が降り始めるに先立ってアハブに祝宴の準備を指示し、豪雨のために道が閉ざされる前に帰途に着くように勧めた。エリヤ自身は神に祈りをささげたが、エリヤに示されたとおりに雨が降り始めた。エリヤがマジックを用いて雨を降らせたわけではない。火を降された同じ神が、旱魃を終わらせ、雨を降らせたのである。そして同じ神がエリヤを雨に閉じ込めさせることなく、超自然的な方法でイズレエルの境まで安全に戻らせられた。
 私たちはしばしば神が素晴らしい奇跡の業を為すために人を用いられることを目撃する。それは牧師であったり、伝道者であることもあれば、信徒である場合もある。この時にその人びとを特別視しすぎ、崇拝し、神のように崇めてしまうことも起こる。しかし、業をなさるのは生ける真の神である。この神を礼拝しよう。
 

 

13/7/19(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:20-21 賛美 新聖歌217・聖歌429
 次いで著者はわたしたちの主イエスについて「永遠の契約の血による羊の大牧者」と述べている。主は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる(ヨハ 10:11)」と述べておられる。そして主は『「見失った羊」のたとえ(ルカ 15:1-7)』において「百匹の羊を持っている羊飼いが、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」と語られた。マタイはイザヤ書を引用して主イエスの姿を「正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない(マタ 12:20)」と述べている。今の世は弱者切り捨ての世である。しかし主は、悩み、苦しみ、さまよう魂を最後まで愛し、寄り添い、救いの恵みに入れてくださるのである。主のこの愛によって救いに入れられた私たちは、主から受けた如く悩み、苦しみ、さまよう魂に愛を持って寄り添うものとなろう。主は言われる「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(ヨハ 15:12)」と。
 

 

2013/7/20(土)担当 高谷由紀子師 ルカによる福音書17:11-19 賛美 新聖歌265・聖歌465
 盲人バルテマイは目が見えることを願って熱心にイエスを呼び求めた。群衆の中でとても主に近づくことは無理なことであった。しかし目が開かれるためにひたすら叫び続けた。この願いは主に届いた。イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(52節)。
 曖昧な信仰ではなく、ただひたすら熱心に、答えられるまであきらめない信仰をバルテマイは持って、主に願った。その信仰によって道端で物乞いをしていたバルテマイは目が開かれ、暗黒から光の人生へと変えられたのです。そしてその喜びと感謝のために主に従いました。わたしたちも、信仰によって神に求めていきましょう。