2013/7/22-27

 

2013/7/22(月)担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙13:20-21 賛美 新聖歌427・聖歌520
 続いて著者は「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」と語る。私たちがこの御言葉から学ぶべき第一のことは、私たちが御心を行うためには全ての良いものがキリストによって備えられる必要があることである。世界には多くの人々が評価する、キリストを抜きにした素晴らしい文化・学問・教え等々が存在する。それらは私たちに感動を与える。しかし聖書は「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある(箴14: 12)」と語っている。またパウロは「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません(?コリ15:50)と述べている。いかに莫大な富も、素晴らしい芸術も、教えもキリストによらないものは私たちに御心を行わせることはできないのである。如何なる時にもキリストによって生きよう。
 

 

2013/7/23(火)担当 ラウジー満世師 列王記上19:1-18 賛美 新聖歌19 聖歌478
 18章でのバアルの預言者たちとの対決においてエリヤはイスラエルの神こそが真の神であることを人々に示した。それを見た人々が主こそ神である(18:39)と認めざるを得ないほどの素晴らしい働きであり、神の栄光が現された。私たちは、これほど神に用いられた器であるエリヤがさらに神の霊の力を得て大きく用いられ、信仰を発揮して素晴らしい働きを続けていくだろうと期待する。しかし19章に入るとエリヤの姿は私達の期待を大きく裏切り、神に敵対する者達の敵意と攻撃に遭い、意気消沈し切ったものである。
 私たちはこのエリヤの姿を見たくないと感じる。神に用いられる素晴らしい器、祝福された者が信仰の危機に直面し、意気消沈する姿を私たちは見たくない。しかし、これが現実である。私達の信仰生活においても、神の臨在を強く感じ、信仰を発揮して神に仕え、素晴らしい御業のために用いられることがある。しかしその直後に自分が予期せぬストレスと霊的スランプに陥り、エリヤのように疲れ果てることがある。そして自分の不信仰を責めて苦しむ。しかしこのエリヤの姿を見るときに、人間である私たちは突然意気消沈し、信仰も神に仕える霊的、肉体的力をも失うときがあるとわかる。
 そのようなときにも自分を責めることなく、人間としての弱さを知り、神に頼る道は常に開かれていることを覚えたい。エリヤを励まし、再び預言者としての働きに立ち返らせてくださった神は今日も私たちとともに居られる。
 

 

2013/7/24 (水) 担当 高谷清師 ヘブライ人への手紙13:20-21 賛美 主をほめよ33
 この聖句から私たちが学ぶべき事の第二は、平和の神が御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださると言うことである。御心に適うことの源は神である。ヤコブは「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません(ヤコ 1: 17)」と述べている。ペトロも「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます(?ペテ 5: 10)」と語っている。パウロは「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです(ロマ 5: 17)」と語っている。地から、即ち人間から出るものは神の御心に適うことを為すことはできない。それができるのは永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスだけである。それ故私たちは「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさいロマ 12:2)」と言うパウロの勧めに従い、自らを主イエスに委ね、主の御心を生きよう。
 

 

2013/7/25(木)担当 ラウジー満世師 列王記上19:1-18 賛美428 新聖歌 聖歌521
 エリヤは意気消沈し、荒野に逃げて行った。荒野は命がないところと考えられていた。そのようなところへ逃げ、預言者としての働きを続けられないと考えていたエリヤにも神は語り続けてくださった。エリヤに食物と休息を与え、ホレブ山まで導き、語り続け、風と地震と火をもってご自身を現し続けられた。その神の臨在に応えられないエリヤを叱ることなく、見捨てることなく、静かな声を持ってなおもご自身を顕し続け、励まし続けられた。ついにエリヤはその神との対話を通して再び目が開かれた。疲れ果て、気力を失っていたエリヤにはオバドヤを通して救われた主の預言者達の存在も忘れていた。しかし、このような失意の中にあるエリヤに対して、なおも神の召しと信任、そして任職は変わらないことを示されたとき、エリヤは再び立ち上がって主に仕えることが出来た。
 あらゆるクリスチャンがそれぞれの立場で主に仕える中で時には疲れ果て、意気消沈し、任務を放棄したくなることがある。自分が自分に失望し、見切るようなことがあっても、神の召しは変わらず、従う者を支えてくださる。
 

 

13/7/26(金) 担当高谷清師 ヘブライ人への手紙 13:20-21 賛美 新聖歌373・聖歌554
 著者はこの祈りを「栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」と、頌栄をもって閉じる。全ての栄光を受けるべきお方は唯一至高の存在であられる神のみである。被造物である人間は唯一至高者として栄光を求めてはならないのである。しかし人は自らを唯一至高者の座に着け、その栄光を求めることを欲するのである。バビロンのネブカドネツァル王は金の像を建て、礼拝するように求めた。ローマ皇帝もまた自らを神として礼拝するよう求めた。日本の天皇もまた自らを現人神と主張し、国民に礼拝を求め、それを拒んで真の神を礼拝する者を迫害した。しかしこれらの試みは歴史の歩みを通して退けられてきた。わたしたちの日常生活においてもキリストに帰すべき栄光を自らに帰していないだろうか。神に献げるべきものを自らの快楽のために使っていないだろうか。神を礼拝すべき時間を自らの必要のために使っていないだろうか。神に栄光を帰すとは、第一のものを第一とすること、神を主とすることである。わたしたちの心の王座にいつも神がおられるように。

 

2013/7/27(土)担当 高谷由紀子師 ルカによる福音書15:8-10 賛美 新聖歌280・聖歌540 主は「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」と言われる。当時は銀の鎖に10個の銀貨を付けた首飾りを既婚婦人のしるしとした。それは今日の結婚指輪と同じ意味をもっていたのであり、婦人たちにとって非常に大切なものであった。従ってそれをなくしたなら一生懸命に探し、見つけた時の喜びも大きかったのである。主は神様にとって一人の罪人はこの銀貨のような存在であると言われる。神様は失われた一人を捜し求め、彼が見つかった時、一人の罪人が救われた時、天において大きな喜があると言われる。わたしたちに対する神の愛の大きさを知る。