2015/6/15-20

2015/6/15 (月) 担当 高谷清師  ?コリ16:1-4  賛美 新聖歌 388
 本書簡はパウロの宣教によって誕生したコリントの教会に関して伝えられた様々な問題、コリント教会からの問い等に答える形で書かれたものである。そのうちの主要テーマについては15章までで大方取り扱った。しかしなお、残る問題があった。そのうちの一つ「聖なる者たちのための募金について」この箇所で取り扱う。「聖なるものたち」とは、この箇所ではエルサレム教会の聖徒たちを指している。エルサレムは言うまでもなく神殿の存在するユダヤ教の本拠地であり、多くの仕事は神殿に関連するものであった。それ故、キリスト者達は働きから締め出され、失業状態の者が多かった。更にアガボが「大飢饉が世界中に起こる」と“霊”によって予告したその飢饉が、クラウディウス帝の時に起こったため(使 11:27-30参照)、「聖なるものたち」の窮乏は深刻さを増していた。そのため異邦人教会に募金が呼びかけられていたのである。それについてのコリント教会からの問いに答えているのである。
 パウロは「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります(ロマ 15:25-27)」と述べている。異邦人教会は霊的恵みをエルサレム教会に負っている。それ故、「肉のもので彼らを助ける義務がある」とパウロは言うのである。受けた恵みに対し、真実をもって応えるのでありたい。

2015/6/16(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書1:1  賛美 新聖歌165
 これまで旧約聖書の歴史書を共に読みながらイスラエルの歴史をたどり、その中で示された神の導きを見てきた。今日から読み進めていくイザヤ書はイスラエルの中で時に応じて神によって選ばれた人を通して神からイスラエルに告げられたメッセージである。イザヤ書の言葉は新約聖書にも数多く引用されており、私たちの信仰生活においても欠くことができないものである。
 救い主イエス・キリストがお生まれになる何百年も前に与えられた言葉の中に、すでに神の救いの計画が示されていたことを、驚きをもって共に読み返すと同時に、預言者の言葉の中で語られた神に従う人のあるべき姿、信仰を学びたい。

2015/6/17(水) 担当 高谷清師 ?コリ16:1-4  賛美 聖歌 501
 募金についてパウロは「週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい」と言っている。この箇所を宮平望師は「週の第一日ごとにあなたたちの一人ひとりが、かなえられる分を蓄えて自分自身のもとに取って置きなさい。(宮平望著コリント人への手紙私訳と解説新教出版社P278)」と訳しておられる。またパウロはこのことに関して「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです(?コリ9:7)」と述べている。募金は他人との比較ではなく、自分の収入、能力、信仰に応じて神様との関係において自ら決めた額をささげるべきものである。神が喜んでくださるのは喜んで与える人である。あらゆる事柄において神に喜ばれる歩みをしょう。

2015/6/18(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書1:1 賛美 新聖歌 259
 最初に預言者イザヤが生きた時代が示される。ユダの4人の王の名前が記されているが、これは北王国が大きく変化していく時代であった。ユダのウジヤ王の時代は北王国ではヤロブアム2世の時代であり、南北ともに分裂以来最も繁栄した時代であった。しかし、その後わずか半世紀ほどの間に北王国はパレスチナの北方で勢力を拡大してきたアッシリアによって滅ぼされていく。北王国が短期間に繁栄から滅亡へと突き進んでいく時代がイザヤ書の冒頭に示され、激しく変化する時代の中でおもに南王国に対してイザヤは預言していく。
 イザヤの言葉は回復や希望を与える預言がよく知られている。しかしそれだけではなく、当時の時代状況において厳しく罪を指摘し、叱責することばも含められている。この様な厳しい言葉を、後で語られる慰めの言葉に包んでかくしてしまうことなく、それぞれのメッセージに耳を傾けよう。

2015/6/19(金) 担当 高谷清師  ?コリ16:1-4  賛美 新聖歌196
 コリント人への手紙二においてパウロは「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか(?コリ11:29)」と述べている。もちろんこの箇所はパウロに押し寄せる伝道・牧会によるあらゆる問題について語っていることであるが、エルサレムの兄弟姉妹たちの事柄もそのうちの一つであったであろう。今日、阪神淡路大震災から始まって関東東北大震災、世界各地において多発する災害、戦闘等によって多くの人々が困窮に陥っている。また強盗殺人罪で無期懲役を言い渡された被告が「これでまた将来、殺人ができるぜ」などと大声を上げたと報じられた出来事、殺人犯人がその動機として「人を殺してみたかった」と言う供述等を前にして人心の荒廃に深い悲しみを覚える。これらに対して私たちの出来ることをさせていただこう。祈りの手を上げよう。

2015/6/20(土) 担当 高谷由紀子師 フィリピ 2:3-5 賛美 新聖歌 216
 日常生活の会話を注意して聞いていると「わたしの家は」「わたしの主人は」「わたしの子供は」と、自分のことに終始している人が多いことに気付かされます。しかし聖書は「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」と教えています。そして他の人に目を向ける場合、「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」ることが大切です。どんなに偉大なものを持っていても、全知全能の神様の前には無に等しいものであり、神がそれを与えてくださったのはそれをもって神に仕え、神の栄光を顕すためであって、自分を高くし、他者を見下すためではありません。弱っている人々、困っている人々、病んでいる人々等、困難の中にある人々に、真にへりくだった思いをもって寄り添うものになりたいものです。”,,1072″