2013/8/19-24

 

2013/8/19(月) 担当高谷清師 ?コリ1:4-9 賛美 新聖歌148・聖歌622
 内に様々な問題を抱えたコリントの教会ではあったが、神はその上に十全な賜物を与えてくださり、コリントの人々も主イエス・キリストの現れを待ち望んでいたのである。それに対してパウロは「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」と語る。こう語る時パウロの脳裏には若き日の自らの姿と、迫害者を選んで自らも使徒としてくださったキリストに対する確信と感謝があったのではないだろうか。彼は「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました(?テモ1:13)」と述べている。
 わたしたちは自らの弱さのゆえに、無知、非力の故に御言葉から迷い出やすい者であるが、真実な心をもって歩むなら、必ず神は、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださるのである。確信をもって、最善をもって歩もう。

 

2013/8/20(火)担当 ラウジー満世師 列王記上22:1-29 賛美 新聖歌415 聖歌574
 イスラエルのアハブ王はユダの王ヨシャファトに対して、共にアラムの王と戦うよう呼びかけた。ヨシャファトは最初から乗り気であったが、それでも主の言葉を求めるように申し出た。
 何事をするときでも自分の思いだけではなく、主の御心を知り、主の導きを聞くことが大切である。アハブ王はヨシャファトの要求に応えて約四百人の預言者に尋ねたが、それは形ばかりであった。巧妙にもアハブは自分の意に反して真実に神の言葉を取り次ぐ預言者ミカヤを排除していた。私たちはいつも神の導きを尋ね、御心を聞き分けることが必要であり、またそれを求めている。しかし、形式上は神にたずねながら、都合の悪いことを聞かないように巧妙に回避していることはないだろうか。
 「神様、教えてください」といいながら、その答えを自分で操作するようなことが私たちの信仰生活にあってはならない。そのような状況に陥っていないだろうか。

 

2013/8/21 (水) 担当 高谷清師 ?コリ1:4-9 賛美 新聖歌281・聖歌538
 パウロは「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と記す。ここで主イエスが語られた放蕩息子の譬えの記事を思い起こす。父に財産の生前贈与を求め、全てを浪費し、無一物になった弟息子が悔い改めて「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」と言った時「父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』と言い、全てを赦し、子として迎え入れたのである。自らの誤りに気付いたユダはなぜイエスのもとに帰らなかったのだろうか。わたしたちが罪を犯す時サタンは「お前はお前のために命を捨ててくださった主を裏切った。もう主のもとに帰ることはできない」と囁く。しかし「神の賜物と招きとは取り消されないものなのです(ロマ 11:29)」。小畑進氏は『この神の救いにおける真実への信仰と信頼こそ、コリント人起死回生の唯一の基点であったのであり、また使徒パウロ自身が依ってもって立つ支点でもあったのでした。私たちも、使徒パウロとともにこう宣言したいと思います。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、カある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と〈ローマ8・38-39>。』(小畑進コリント人への手紙第一提唱いのちのことば社P49)。神の救いにおける真実への信仰と信頼は、すべての人を信仰生活の危機から守るのである。信仰と信頼に生きよう。

 

2013/8/22(木)担当 ラウジー満世師 列王記上22:24-240 賛美 新聖歌389 聖歌502
 アハブは戦いに出て行った。アハブは死を恐れて自分の服を身に着けず、変装して出かけた。実際にアラムの兵士たちはイスラエルの王アハブだけに狙いを定めていた。このような状況においてアハブの変装は賢い手段であった。しかし皮肉にも変装していたアハブは敵の一兵が「何気なく」(34)引いた弓に射られた。そして夕方には息絶えた。
 アハブは神の民、北王国イスラエルの王であった。王がこのような時代になったら、国も滅びるのが常であろう。しかし神に従わなかったアハブは結局死ぬことになったが、戦いのために召集された民は預言者の言葉のとおりにそれぞれの町へ帰れと言われて何事もなかったかのように帰り、民は守られたのである。
 神の民を導くために立てられた指導者は重要である。指導者が誤った道を進むときに民全体が苦しむ。しかし、神は間違った指導者と、その他の民を十把一絡げに扱うことはなさらない。たとえ指導者が間違ったとしても、その元にある民を神はしっかりとご覧になり、ご自分の民を守り、正しい道へと導かれる。

 

2013/8/23(金) 担当高谷清師 ?コリ1:10-12  賛美 新聖歌201・主をほめよ71 
 コリント教会の人々への挨拶と感謝を述べ終えたパウロは、コリント教会の問題を扱い始める。そして最初の勧告「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と。パウロがこの勧告を発したのはクロエの家の人たちを通して彼らの間に争いがあると知らされたからである。彼らはめいめい『「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」』などと言い合っていたと言うのである。「争い」はガラテヤ書によれば肉の業である。それに対してパウロは「心を一つにし思いを一つにして、固く結び合」うことを求めているのである。こうした一致の姿は使徒言行録に見ることができる。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた(使 4:32)」。一致は、豊かな聖霊の臨在のもと、全ての者が満たされ、自らを低くし、神のみを礼拝するところに生まれるのである。
 この勧告は主イエス・キリストの名によって為されたのである。この御名だけが、他のいっさいの党派名を越えて、権威あるものである。省みて今日のわれらの内にいかに分裂、分派と争いの多いことであろうか。今も働かれる聖霊様のもとに自らを低くし、心も思いも一つにし、主の栄光のために仕えよう。

 

2013/8/24(土)担当 高谷由紀子師 マタイ 6:1-4 賛美 新聖歌459・聖歌516
 主は善行について「「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」と教えられました。
 人は善行をしょうとする場合、人から認められ、称賛されようとして会堂や街角で行う、即ち、自分の前でラッパを吹き鳴らそうとする誘惑にかられる。しかし、この世において人々から称賛を受けてしまったなら、父なる神からの報いを受けることはできません。人目につかない、隠れた善行、人から報いを受けることのない善行に対して父なる神が報いを与えてくださるのです。人からではなく、父なる神から報いを受ける信仰生活を続けましょう。