2020/3/30-4/4

 2020/3/30(月) 担当 高谷清師 ヨハ 17:6-9 賛美 新聖歌 202

 イエスは「世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします」と言われる。イエスの祈り・大祭司の祈りは世のためではなく、父なる神がイエスに与えられた人々のために献げられた祈りである。父なる神がイエスに与えられた人々とは、「あなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じた」人々である。これについて山田京二師は「ヨハネによる福音書においては、信仰とは、神の存在を信じることでも、神の唯一性を信じることでも、あるいは、神の愛、神が愛であることを信じることでもない。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストを知ること」(17:3〉とあるように、父なる神とその子イエス・キリストという「関係」の在り方を知り、信じることである。それはただ抽象的に唯一のまことの神の存在とか、その神の性質を信じることではなく、唯一のまことの神が御子イエス・キリストをこの世に派遣したこと、子なるキリストに父なる神が御自分のもっているすべてを与えたこと、そして、子なるキリストの方でも「わたしのものは皆あなたのもの、あなたのものはわたしのもの」(10節)という確信をもっていたことを知り信じることなのである。そういうことを通して、具体的に神の在り方、神の愛の性格、そもそも「愛」そのものの性格を知ることが信仰なのである。」(説教者のための聖書講解No33P15−16日本基督教団出版局1980)と述べておられる。ヤコブは「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。」(ヤコ 2:19-20)と述べている。信仰とは観念ではなく、命の交わりである。
 
2020/3/31(火) 担当 ラウジー満世師 アモス書7:10-17  賛美 新聖歌389
 この出来事から私たちは神の言葉をどのように聞き、受け止めるべきかを問われる。すでにギルガルとベエル・シェバでの礼拝を批判していたアモスはここでベテルの祭司の怒りを買っている。アモスが語った預言がベテルの祭司にとっては受け入れ難いものであったからだろう。アマツヤはこの預言に反発し、王のもとに出てアモスが語った預言の中から王国に対して批判的なものだけを伝えた。アモスを窮地に陥れる預言だけを王の耳に入れたのは、アマツヤが神の言葉を真摯に受け止めなかったからである。かつてダビデ王は預言者ナタンを通して罪を指摘された時、その預言を真摯に受け止め、それを機に悔い改めて神との関係が回復された。本来、耳が痛くなる神の言葉を聞き入れるならば人はダビデのように受け止めることによって赦しの道が開かれる。しかしアマツヤは祭司としての立場を守るために不十分な伝言によってアモスを攻撃した。
 いかに神の言葉を素直に聞き、自分にとって喜ばしくない預言に対してもへりくだって応答するか、それが神との正しい関係の中に生かされ続ける鍵である。常に主の御声を正しく受け止め、応答できるよう、心を整えよう。
 

2020/4/1(水) 担当 高谷清師 ヨハ 17:6-9 賛美 新聖歌 201

 山田京二師は続いて「愛とは「交わり」であり「関係」であるということである。私たちにとって大切なことは、ただイエスの愛、ただ神の愛を信じることではなく、イエスが父なる神からつかわされたことを信じることであり、そのイエスは徹頭徹尾その父なる神に従順をしつくした方であることを信じることなのである。そのように信じた者が、今イエスから「彼らを守ってください」と、とりなしの祈りを受ける資格があるのである。/私たちは、父なる神と子なるキリストとの関係を知ることによって、具体的に愛を知るのである。」(説教者のための聖書講解No33P16日本基督教団出版局1980)と述べておられる。イエスは「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハ 13:34)と教え、また「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハ 15:17)と教えておられる。更にヨハネは「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」(?ヨハ3:23)と述べている。イエスが徹頭徹尾その父なる神に従順であられたように、私たちがイエスに全く従順であることによって愛を生きるのである。

 
2020/4/2(木) 担当 ラウジー満世師 アモス書7:10-17  賛美 新聖歌384
 アモスとアマツヤの対話は続く。アモスは自分の立場上、預言者アモスを黙らせてベテルから追い出そうとした。しかしアモスが語ったのは自己都合、自己利益のためではなかった。アモスは語り続ける理由は神から預言者として召され、言葉を託されたからだと述べる。ここで人の事情、社会の都合を優先するアマツヤと、社会の安寧よりも神の権威を優先しようとするアモスとの明確な対立が現れる。
 しばしば私たちは神からのメッセージが現状にとって好ましくない場合には神の権威に服するよりも自分の都合を優先しようとする。しかし、神の権威によって語られる言葉は、人によって操作されるものではないし、神の言葉に服することを拒むならば命と恵みに至る機会を自ら握り潰し、裁きを招くことになる。いかに神の言葉を聞き、向き合い、受け止めるか―アモスの姿に倣う者でありたい。
 
2020/4/3(金) 担当 高谷清師 詩 51:10-11  賛美 新聖歌 427
 ダビデは罪を指摘され、その罪の重大さに打ちのめされる。その絶望の淵にあって、人が罪の故に空しく滅びることを看過されない神の燃える愛を知ったダビデは「喜び祝う声を聞かせてください/あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず/咎をことごとくぬぐってください。」と祈る。詩編147編において詩人は「主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる。」(詩 147:2-3)と詠っている。イザヤは「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。」(イザ 42:3)と述べている。神は罪を悔い改める魂を絶望の淵に放置することはなさらない。私たちから出る希望ではなく、神から発する希望、十字架の御業によって与えられる神の希望によって満たしてくださる。キリストにある希望によって生きよう。
 

2020/4/4(土) 担当 高谷由紀子師 マタ 8:5-10 賛美 聖歌 196

 イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言いました。するとイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われました。それに対して百人隊長は答えて「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」と言いました。イエスはこれを聞いて感心し、「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と言われました。創世記には神が言葉によって宇宙万物を創られたことが記されています。また、マタイは「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」(マタ 8:16)と記しています。御言葉によって歩みましょう。