2021/4/5-10

 2021/4/5(月) 担当 高谷清師 コロ 1:13-20 賛美 新聖歌 18

 パウロは「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。」と述べている。ガラテヤ書においては「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした。」(ガラ 4:4-5)と述べている。ヨハネは「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」(ヨハ 3:16)と述べ、また「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(?ヨハ4:9-10)と述べている。罪によって永遠の滅びに定められた私たちを愛して救いの道を備えてくださったのは神である。

 

2021/4/6(火) 担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:5-6前半  賛美 新聖歌18

 ここからは預言者による厳しい言葉が続けて語られる。武力によって次々と諸国を征服してさらに巨大化していく大国を見ながら、征服された民はなすすべがなかった。征服する側の大国の人々は戦勝の喜びに浸っていただろう。そのような強大な国に対してハバククは、この国が決して満足することがないと語る。大国は成功者ではなかった。自らの欲望に支配されて突き進む存在であり、軍事的成功を収めているかに見えるこの国は人々から嘲りを受ける。

 一般的に社会では軍事的に強大になり、様々な方面で成功をおさめ続ける存在をもてはやし、あこがれることが多い。しかし神の目から見ればそれは欲望に支配されて満足を得られない状態に陥っているのであり、決して人々から真正の信頼と尊敬を得ることなく、嘲られるという。うわべの成功を求めるのか、神にあって心からの平安に満ち足りた歩みを求めるのか、折に触れて立ち止まって自分自身を確認したい。

 

2021/4/7(水) 担当 高谷清師 コロ 1:13-20 賛美 新聖歌 225

 パウロは「わたしたちは、この御子によって、贖い、すなわち罪の赦しを得ているのです。」と述べている。ヨハネは「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。」(?ヨハ1: 7)と述べている。私たちに罪の赦しを得させるものはイエスの血潮以外にはない。常にイエスの血潮の内にあって歩もう。

 

2021/4/8(木)担当 ラウジー満世師 ハバクク書2:6後半-8  賛美 新聖歌282

 強大な帝国として次々と周辺を征服している国が、ここでは負債を積み上げていると言われる。一般的に考えれば、戦いに勝って領土を広げている国が債務を積み上げているとは理解しがたい。しかし神の目から見れば、他人の物を不正に略奪するならばそれは自ら負債をかき集めているとされる。人間社会では力によって大規模な略奪が起こればそれは正当化される。しかし神の目にはそのような横暴は許されない。いつまでも強大であり続けられるように見えても神の時が来るならばそれは突然債務として取り上げられる。

 社会では時の権力者の都合によって「悪」の定義がころころと変わる。しかし神は「罪」の定義を変更されることはない。すぐには裁きが起こらないというときもあるだろう。しかし、神の義は変わることがない。いつ、どのように神の裁きが行われるかは神の確かな御手に委ね、どんなときにも神の基準に従って正しく歩もう。「神に従う人は信仰によって生きる(2:4)」のである。

 

2021/4/9(金) 担当 高谷清師 詩  61:2-3  賛美 聖歌 441

 詩人は「神よ、わたしの叫びを聞き/わたしの祈りに耳を傾けてください。心が挫けるとき/地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に/わたしを導いてください。」と祈る。この箇所について月本昭男師は「もはや自分の力では確かな地歩を固めえない、と自覚するにいたった一人の信仰者の姿がここに思い浮かぶ。自己の能力だけでなく、それまで自己の支えとしてきたものすべては存在の確かな基盤とはなりえない。いまや、自己そのものをエルサレムにいます神に明け渡す以外に解決はない。詠い手はそう信じて、そこに私を導いてほしい、と神に願ったのである。」『詩編の思想と信仰?』P149新教出版社2011)と述べておられる。パウロは「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ 3:8-9)と述べている。

 神を信じている私たちも、肉の弱さのゆえに神の御心に従い得ない自分を発見し、絶望に陥れられる。しかし、愛なる神はそのような私たちを助け、高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてくださる。神により頼んで歩もう。

 

2021/4/10(土) 担当 高谷清師 コロ 1:15-20 賛美 聖歌 260

 この箇所は御子について語っている。第一に「御子は「見えない神の姿であり」と語られている。創世記は「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(創 1:26-27)と述べている。人間は神にかたどって創造された。しかし、罪を犯すことによって神の似姿は破壊され、失われた。川村輝典師は「現実の人間がすでに失ってしまっている神の像を、キリストが受肉されることによって、回復させてくださったのである。確かに、神の子が人となられたことによって、現実の人間の救い、罪の赦しの希望がもたらされたのである。」(説教黙想アレテイア エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、フィレモンへの手紙P223日本基督教団出版局2012)と述べておられる。ヨハネは「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(ヨハ 1: 18)と述べている。御子イエスにおいて神を見、人間の真の姿を見、御子に在ってのみ、神に喜ばれる歩みが出来るのである。