2016/12/26-31

2016/12/26(月) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:14  賛美 新聖歌 284
 ヨハネは「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と語る。「宿られた」と言う言葉は「天幕を張ってその中に住む」ことを意味します。神は荒野を旅するイスラエルに幕屋の建設を命じ、その幕屋においてご自身を顕された。森野善右衛門師は「イエスが最も重んじられたことは、神の意志をあらわすこと、神の支配を告げ知らせること、神との深い交わりに生きることでした。もう一つ、イエスが関心を持たれたのは、生きた人間でした。制度、組織、名声、宮、権力、文明の進歩などよりも、生きた人間と出会うこと、友なき者の友となることでした。イエスは、どこにでも行き、だれとでも自由に問答を交わし、食卓を共にし、神の国の福音を宣ベ伝えられたのです。イエスは特に、取税人、罪人、遊女のような、この世的に差別され、軽蔑されている人たちと分けへだてなく交わりを持ちました。彼は人間の思想、家柄、学問、地位、金、権力でなく、あるがままの人間を愛されたのです。イエスは、この世を旅人、宿り人として自由に生きた人でした。「天幕を張る」とは、そういうことを意味しているのではないでしょうか」(世の光キリストヨハネ福音書1-9章によるP13−14新教出版社1979)と述べておられる。主に召された者の追い求めるべきものが何であるかを示している。

2016/12/27(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書59:1-8 賛美 新聖歌 35
 人は罪を指摘されると咄嗟に自分の悪や過失を他の人に責任転嫁してしまう。自分自身の悪い行いを認めることは難しい。聖書も冒頭からそのことを包み隠さず伝えている。アダムとエバの最初の罪の場面で彼らはそれぞれ自分以外のものに責任を押し付けた。イザヤ書の時代にも人々は物事がうまくいかない状況に苛立っていた。その中で彼らは、このような状況に陥ったのは自分たちに非があるからだとは認めず、主の手が短いからだ、すなわち主に力が足りないからだと不満を述べた。この様な人々に対して神は主に非があるのではなく、彼ら自身の罪が問題であると明確に指摘された。
 自分の罪を認めず、神さえも悪とするほどに人間の心は頑なである。しかし神はそのような人に対して明確に罪を指摘し、自分自身を見直すことを求められる。「私には罪がない、私は信仰者として正しく歩んでいる。」と主張する自分自身は本当に神の前に正しい歩みをしているだろうか。今一度心を見極めたい。

2016/12/28(水) 担当 高谷清師  ヨハネ 1:14  賛美 新聖歌 452
 続いてヨハネは「わたしたちはその栄光を見た。」と語る。この箇所について森野善右衛門師は『神の子としてのキリストの姿は、その僕の姿の中に包まれ、隠されていました。それを見るためには、ただ人間の肉眼以上の眼が、すなわち信仰の眼が必要であったのです。「〈見る〉ということは、ヨハネによる福音書の常として、決して目撃者が肉眼で見るということではなく、また神秘的に見るということでもない。信じる人々が見るということ、彼に(イエス)に属し、彼を受け入れた人々が見るということである」〈NTD)。ヨハネの「見る」「知る」は、肉の眼で見ることではなく、信じて見ることを意味しています。イエス・キリストによって神があらわされた。しかしこの啓示は、僕の姿の中に隠されてあらわされたのです。ここに一つの逆説があります。したがって、見る目のある者は見るベし、聞く耳のある者は聞くべし、といわれているのです。』(世の光キリストヨハネ福音書1-9章によるP14−15新教出版社1979)と述べておられる。神の栄光、真理は信仰によってのみ把握される。

2016/12/29(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書59:9-15 賛美 新聖歌 312
 8節までの部分で明確に罪を指摘された民はその言葉に対して応答している。彼らは自分たちの罪と無力さを認めて嘆いている。日が照っている真昼でも暗闇の中に居るかのように躓いてしまう。自分たちが罪を犯したがゆえに救いはない。そしてその罪とは「背きの罪」(59:12)である。神のことばに聞き従わないことが罪である。主に対して偽ることが罪である。神から救いを受けて神との関係の中に生きる者とされた人は、神に従うことを求められている。神はそのためのガイドラインとしての十戒を与えられた。
 私たちもまた神を信じる者としてどのような生き方を求められているのか、み言葉を通して知っている。にもかかわらず神に背いているならば、光の中にあっても光を認識できなくなってしまう。私たちは光の中を歩んでいるだろうか。背きの罪を認め、神と共に歩むことが第一歩である。

2016/12/30(金) 担当 高谷清師  詩編28:8-9  賛美 新聖歌 388
 神は、神に逆らう者、悪を行う者に囲まれ、試練の中に在って祈ってきたダビデに主は答えてくださった。この箇所においてダビデは「油注がれた者」即ち、油注ぎをもって任じられた王として「お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください。」と祈る。
 主は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハ 10:11-14)と教えておられる。またぺトロは「あなたがたにゆだねられている、神の羊の群れを牧しなさい。強制されてではなく、神に従って、自ら進んで世話をしなさい。卑しい利得のためにではなく献身的にしなさい。ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。」(?ペテ5:2-3)と教えている。私たちは任じられ、立てられている立場においてその背後には、牧者、役員であれば教会員、父母であれば子供たち、また地域の人々のためにへりくだり、執り成しの祈りの責めを負っていることを自覚しょう。

2016/12/31(土) 担当 高谷由紀子師 ?テサ5:16-18 新聖歌 398
 初代教会の中でもとりわけ激しい迫害にさらされていたテサロニケの教会に対して送ったパウロの手紙の一節です。そのような困難の中にある聖徒たちに対してパウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」と記しています。主は十字架に架かり、血を流し、命を捨てて、私たちの罪を贖い、信じる者に永遠の命を与えてくださいました。この永遠の命は、誰も取り去ることはできません。パウロが「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ロマ 8:35)と述べているとおりです。
 この年も多くの災害があり、困難があり、試練がありました。しかし如何なるものも私たちから救いを奪うことの出来るものはありません。救い主に感謝し、不動の信仰をもって新しい年に踏み出しましょう。”,,959″