≪デボーションの友≫2022/12/12-17

2022/12/12(月) 担当 高谷清師 ガラ4:12-18 聖歌(総)241  聖歌 263

 パウロは「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。」と問うている。そして「あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」と語る。この箇所について近藤勝彦師は

「自分の目をえぐり出してでも与えようとしたというのは、自分にとって最も大切なものを与える、そしてその人に仕えるという表現です。それが幸福を表していると言うのです。ある人が本当の意味で幸福であるのは、自分の最も大切なものをも喜んでささげて仕える中に表現されると聖書は語っているのです。そういう交わりの中に福音の信仰の正しさが現れていると語っているのです。」(十字架のキリスト以外に福音は無いP101-102)

と述べておられる。戦中戦後(第二次世界大戦)の日本は極端な物資不足の時代を経験した。その物資不足がある程度改善して「もはや戦後ではない」と言われたのは1956年のことであった。物資不測の時代、親は食べなくても子供には食べさせ、親は着なくても子供には着せた。それが愛であり、幸いであった。真の幸福、それは自分の全存在を神にささげ、全存在をもって神を愛することにある。

2022/12/13(火)担当 ラウジー満世師 創世記22:20-23:20  聖歌(総)513  聖歌495

 サラの死と埋葬について記されている。アブラハムは神に召されたとき、自分の生まれ故郷を出て行き先も知らずに神に従った。生涯神の導きに従って様々な土地を転々としたが、妻サラが亡くなった時、彼はその地のヘテ人に代価を支払って埋葬のための土地を購入した。ヘテ人はアブラハムを「御主人」、「神に選ばれた方」と呼んでいる。この地の人々もまた彼が神に選ばれて守られていることを認めている。彼は土地を転々としながら生活していたが、サラと後にアブラハム自身も葬られる墓地を購入することが出来た。葬りの場所を与えられるということは王国時代に入ってからも神の赦しのもとで行われることであり、神の目に適う生涯を歩んだ人々に与えられた恵みであった。

 神の召しに応えて故郷を出た夫に従った妻サラもまた神は覚えて下さった。埋葬の地を与えられたことによって神の憐れみがここに注がれていることを示された。神に従う全ての人を神は見て下さっている。

2022/12/14(水) 担当 高谷清師 ガラ4:12-18  聖歌(総)538  聖歌 520

 パウロは「あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。」と語る。律法主義者がガラテヤの人たちに熱心になっているのはガラテヤの人たちの救いを願っているからではなく、自分たちに熱心にならせようと言う意志からであるとパウロは言うのである。今、巷では旧統一教会問題が騒ぎになっている。その創始者文鮮明は、自分自身を救い主としている。

聖書は

「わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。(Ⅰヨハ2:21-23)」

と語っている。私たちの罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んでくださったイエスだけが救い主である。異なる教えを持つ者が如何に熱心に近づく時にも、しっかりと真理に立って歩もう。

2022/12/15(木)担当 ラウジー満世師 創世記24:1-27 賛美 聖歌(総)604  聖歌570

 神の祝福を受けて年老いたアブラハムにはなお一つ、なすべきことがあった。イサクの結婚であった。アブラハムは長年彼に仕え、全財産の管理を任せるほど信頼している僕を生まれ故郷に遣わした。この結婚の条件はかつて神からアブラハムに与えられた土地の約束に基づいてイサクを行かせるのではなく、嫁がこの約束の地に嫁いでくることであった。この結婚が神に導かれたものとなるために大切なことは人の思いによってなされるのではなく、神に従うことによってなされることであった。それゆえアブラハムは僕に神への誓いによって任務を行うことを誓わせた(24:2-3)。この任務が神の導きによってなされなければならないと知っていたこの僕は旅の間も神の導きを求め(24:21)、一族の家に導かれたときには神に感謝と賛美の祈りを捧げた(24:26)。

 神の導きを求めてことを行う時、それは神に従うという信仰によって始められ、実行していくその過程においても神の導きを求めて祈り、聞き届けられていると知った時にも感謝と賛美の祈りを捧げることが自然に現れる姿勢である。

2022/12/16(金) 担当 高谷清師 詩 72:12-15 賛美 聖歌(総)431 聖歌 428

 15節において詩人は「王が命を得ますように。彼にシェバの黄金がささげられますように。彼のために人々が常に祈り/絶え間なく彼を祝福しますように。」と祈る。詩人が、そして人々がこのように祈るのは、王が助けを求めて叫ぶ乏しい人・助けるものもない貧しい人を救い、弱い人・乏しい人を憐れみ、彼らの命を救い、王の目に彼らの血が貴いものとされることによるのである。すなわち、王が私利私欲を捨て、神を畏れ敬い、民を愛することによるのである。

 ルカによる福音書7章には百人隊長の僕の癒しに関する記事が記されている。ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた。イエスがカファルナウムに入られたのを耳にした百人隊長はユダヤ人の長老たちを使いにやって、部下を助けに来てくださるように頼んだ。イエスのもとにやって来た長老たちはイエスに「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです。」王たる者は、指導者として立てられた者は愛によってその職務を遂行する時、人々の信頼と愛を得る。教会の指導者として、職場の上司として、家庭の長としての任にある者の銘記すべき事柄である。

2022/12/17(土) 担当 高谷清師 マタ5:43-46 賛美 聖歌(総)231 聖歌 255

 山上の説教においてイエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と命じておられる。それは私たちイエスを信じる者が天の父の子となるためである。神は天地の創造者であり、私たちの敵対者の創造者でもあられる。それ故、父なる神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。また、ヨハネは「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。(Ⅰヨハ 3:16a)」と述べている。イエスはすべての人間を愛し、すべての人間のために死んでくださったのである。私たちに敵対する者の為にも死んでくださったのである。神はご自身を信じ、ご自身に従う者を愛してくださっているとともに、ご自身に敵対する者をも愛しておられる。それ故、敵対する者の為にも祈ることを求めておられるのである。