2016/2/1-6
- 2016.02.01
- ディボーションの友
2016/2/1 (月) 担当 高谷清師 ?ペテ3:1-7 賛美 新聖歌 211
この段落においてぺトロは夫と妻に呼びかける。1節〜6節には妻に対する語りかけが記されている。最初に「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。」と語られている。この語りかけは男女同権、平等が主張される21世紀においては、反論を受けるかもしれない。しかしパウロも「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。」(エフェ 5:22-24)、妻たちよ、主を信じる者にふさわしく、夫に仕えなさい。(コロ 3:18)と記しているように、聖書の原則である。それは上下関係ではなく、互いがキリストによって示されたアガペーの愛に満たされて互いを尊びあう時に喜びとなるのである。
2016/1/26(火) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書26:1-6 賛美 新聖歌317
「その日には」と言われているのは実際にいつのことなのか、歴史上での特定の時や出来事は示されていない。神がイスラエルに公正な裁きを行われ、最終的に神に従い、信仰を守る民が守られるときのことについて歌われている。これらの人々には平和が与えられる。実際にイザヤの時代のイスラエルの民は、神を信じない大国に脅かされていた。しかし、イザヤは最終的に主が与えられる平和と平安を得るのは強固に武装して戦いに備えた者ではなく、信仰を守る民であるという。
目の前の現実として危機が迫り、命の危険を感じるとき、信仰がどれほどの武器になるかと疑い、信仰ではおなかが満たされないと感じるだろう。しかし神が顧みて平和を与えるのは、神に従い、信仰を守る人々である。神ならぬものを神としてしまう横道にそれたり、傲慢になって自分を神としてしまったりすることがないよう、真の神を見つめつつ、神ご自身を信じなさいと言われる声に従おう。
2016/2/3(水) 担当 高谷清師 ?ペテ3:1-7 賛美 新聖歌 394
続いてぺトロは「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。」と語る。前回は夫が主を信じる者である場合について記した。しかし、ぺトロは夫が御言葉を信じない人であっても真心をもって夫に従う様、求める。これは妻に多大の忍耐を強いるかもしれない。しかしそれは夫が御言葉を信じない人であっても、神を畏れるあなたがたの純真な生活を見て妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためである。これは今日の宣教の行き詰まりを打破する重要な御言葉である。フィリッフ・ヤンシ一氏はその著書、『隠された恵み “福音”は良き知らせになっているのか』(いのちのことば社2015)の中で「1996年、特定の宗教をもたない米国人のうち、85パーセントがキリスト教を好意的に見ていた。ところが13年後の2009年になると、キリスト教に好印象をもっているのは2%の若いアウトサイダー(宗教に距離を置く人)だけであり、そのなかで福音派の人々に良い印象をもっているのは、3%にすぎなかった」(P14−15)「福音派の人々はこう呼ばれていました。無教養、貧欲、人種差別主義者、愚か者、狭量、排他主義者、熱狂主義者、奇人、まねけ、妄想家、単細胞、横柄、残虐非道、うすのろ、そして変人。これはその一部にすぎません・・・・・。」(P17)。誤解されている面もあるかも知れないが、耳を傾けなければならない言葉である。そのような人々に福音が届くのは口先の言葉ではなく、御言葉に忠実な行いによってだけである。
2016/1/28(木) 担当 ラウジー満世師 イザヤ書26:7-19 賛美 新聖歌172
神に定められた道を歩み、従う人々の願いは主の御名をたたえることであると記されている。なぜ彼らは主をたたえるのだろうか。それは彼らが歩みの中で、進むべき道を整えてまっすぐにしてくださる方は神ご自身であることを知るからである。また、神から豊かな憐れみを受けていることを体験し、知るからである。神を信じる私たちは礼拝に集まる時に賛美をささげる。兄弟姉妹と集まる時だけではなく、一人だけの時にも賛美をささげることが出来る。それは神の豊かな憐れみと恵みを思い起こすときであろう。神への心からの感謝に満たされるとき、自然に賛美が湧き上がる。
私たちの歩みは賛美で満たされているだろうか。まず神の豊かな恵みを数え、たくさんの祝福を受けていることを思い起こそう。
2016//2/5(金) 担当 高谷清師 詩編11:1-7 賛美 新聖歌
ダビデはその生涯において幾度も理不尽な出来事によって窮地に立たされた。初期においては義父サウルの嫉妬による殺害計画によって流浪の日々を送らなければならなかった。晩年には実の息子アブサロムの反乱によって逃避しなければならなかったのである。人々は「鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。」と勧告しました。たとえダビデが主の道を歩んでいるとしても、世の秩序が覆っている事態の中に在っては、主の道、義の道は尊ばれない、「主に従う人に何ができようか」と。しかし、ダビデは主に目を向ける。主は乱れた地上ではなく、主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。主は、主に従う人と逆らう者を調べ、不法を愛する者を憎み、逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる。それ故、ダビデは「主を、わたしは避けどころとしている」と語る。
今日においても、主を賛美しながら主を侮る輩の理不尽な行動によって、真に主に従おうとする人々は圧迫を受けている。しかし「主は正しくいまし、恵みの業を愛し、御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」のである。固く立って主に従おう。
2016/2/6(土) 担当 高谷由紀子師 マルコ6:45-52 新聖歌316
主は十字架におつきになる前に弟子たちを伴いゲツセマネに行き「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られました。その様子をルカは「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ 22:44)と記しています。その祈りは実に、命がけの祈りでした。私たちの祈りは「病をいやしてください」「何々をしてください」「〜が成功しますように」と言った、自分の願望の満たしを求める祈りのなんと多いことでしょう。聖書には「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタ 6:33)と約束されています。日々、神のみ旨が行われるよう、祈りましょう。”,,1114″
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