2022/1/17-22

2022/1/17(月) 担当高谷清師 Ⅰテモ2:4  賛美新聖歌 185
 パウロは「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」と語る。テモテへの手紙?においては「反抗する者を優しく教え導かねばなりません。神は彼らを悔い改めさせ、真理を認識させてくださるかもしれないのです。」(?テモ2:25)と語っている。またぺトロは「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(二ペト 3:9)と語っている。ヘブライ人への手紙の記者は「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。」(ヘブル 10:26)と語っているが、神の御心は全ての人が悔い改めて救いに与ることである。
 
2022/1/18(火) 担当ラウジー満世師 ゼカリヤ書13:2-6 賛美 新聖歌339
 終わりの日に神が歴史に介入し、ダビデの家のために立ち上がられることが続けて語られている。その時、神がなさる大きな御業は多くの偶像をこの地から取り除くことである。今の時代だけではなく、イスラエルの歴史においても常に偶像礼拝は神の民にとって誘惑であった。かつてイスラエルの民が40年間荒れ野をさまよった後についに約束の地に入った時にも神はその土地の偶像を滅ぼし尽くすように厳しく命じられた。少しでも偶像礼拝が容認されるならばそれは人々の心に入り込み、唯一の神のみに対する礼拝から人々を引き離すからである。神は人々の心を惑わし、神から引き離す偶像を取り除いてくださる。
 今日の私たちの社会にも世界中に偶像礼拝は満ちている。神でないものを人々は神と信じ、礼拝している。しかし最終的に神はそれらを地の面から一掃し、人々がただ神のみを礼拝するように導いてくださる。終わりの日に主の御業があらわされ、人々が神に立ち返ることが出来るようとりなして祈ろう。
 
2022/1/19(水) 担当高谷清師 Ⅰテモ2:4 新賛美新聖歌 446
 ここで「悔い改め、真理を認識する」ことについて考えてみたい。マルコはイエスの宣教の始めの言葉として「「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。」(マル 1:15)と記している。日本のような異教社会にあるキリスト教会では「悔い改め」とは、今まで神を信じないで罪を犯し続けてきた人々が、罪を認め、神を信じるようになるという意味で使われてきたように思われる。しかし、前述のイエスの言葉は選民・イスラエルに向けて語られている。また、旧約の預言者の悔い改めを迫る言葉の大部分も選民・イスラエルに向けて語られているのである。今日の日本の教会においては前述のように、それは未信者に向けられたもので、信仰を告白した自分たちには関係ないと思われがちであるが、そうではない。日々、真摯に御言葉に向き合い、悔い改め、真理の道を歩もう。
 
2022/1/20(木)担当ラウジー満世師 ゼカリヤ書13:2-6 賛美 新聖歌374
 終わりの日に、主は偶像を取り除かれ、同時に預言者たちをもこの地から追い払うと言われる。預言者が取り去られると聞くと驚くかもしれない。しかしこのように神が直接歴史に働かれる時には神が直接語ってくださるので、預言者を介して御心を示される必要もなくなる。さらにここで取り除かれる預言者は正しく神の言葉を受け取って語るものではなく、自分たちの幻を語り、神の名を用いて偽りを告げる者である。いつの時代にも神の名を用いて自分を預言者と称し、偽りを語る者は後を絶たない。私たちは神の言葉である聖書に基づいて語られる預言を見極め、偽りの預言をする者を神からの知恵によって退けなければならない。
 終わり日が近づいている時代にますます神の名を語って人々を惑わす偽預言者が多く現れる。主の霊によって見極め、み言葉に立って判断していけるよう日々み言葉を読み、祈ろう。
 
2022/1/21(金) 担当 高谷清師 詩 66:1-20  賛美 聖歌 396
 この詩篇は神の栄光を讃える賛美の前半部(1-12節)と、個人の感謝の歌(13-20節)の後半部分に分けることができる。教会の礼拝と個人の信仰体験は賛美と感謝で結び付いている。メイズは
「教会がこの詩編を用いる時、自分達が救出と帰還とイスラエルのオリーブの木につぎ木されたひこばえであるとの告白から成る物語を持つ共同体に連なっていることを知る。そして教会は、救いの歴史に、新たに神の素晴らしい救いのみ業の証言を加えるものとなる。すべての人の心の内にある生命の叫びへの答え、すなわち全世界に与えられた神の国の福音である、死と復活の物語こそそれである。」
と述べている。
 私たちは信仰の歩みにおいて時として試練に遭遇し、神の愛を見失いそうになる時もあるであろう。そのような時、主の十字架を仰ぎ見よう。ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハ 3:16)と語っている。そしてイエスは「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハ 16:33)と語っておられる。
 
2022/1/22(土) 担当高谷清師 ヨハ 2:1-11 賛美聖歌 566
 イエスの母が問題をイエスに告げた時、イエスの答えは「分かりました。すぐに必要を満たしましょう。」でもなく「すぐにぶどう酒を調達しましょう。」でもなかった。そうではなく「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」という、言わば、突き放した冷たい答えであった。しかし母はその答えに腹をたてるのでもなく、抗議するのでもなかった。召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言ったのである。彼女はイエスが、彼女が思い描いた時と方法によらなくても、イエスの時とイエスの方法によってより良い解決を与えてくださることを信じていたのである。私たちは、必要を感じて祈る時、この方法で、この時にと要求し、それが実現しないと失望しがちである。しかし、イエスは言われる、
「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタ 7:9-11)

と。私たちの祈りに対して神はご自身の時と方法をもって応えてくださる。御手に委ねて平安の内に待ち望もう。