2022/1/10-15

 2022/1/10(月) 担当 高谷清師 Ⅰテモ2:1  賛美 新聖歌

 ここでパウロはテモテに対する勧めを記す。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」と。この箇所についてヨアキム・エレミアスは

「礼拝において、より正確に言えば、聖餐式を伴う礼拝において、共同で行われる公の執り成しの祈りが、教会秩序の冒頭に置かれている。最古の集会で行われた集まりは、すべて聖餐式であった。そしてこの執り成しの祈りは、生命にあふれるエクレシアの生活の最も内的な表現であり、聖書の説き明かしに接続して行われたのである。(中略)「願い、祈り、執り成し、感謝』という四つの言葉は、一つの事柄として理解すべきものである。キリスト者の祈りの内容を、こうしてあらゆる方面にわたって、敷衍しているのである。執り成しの祈りは、何の限定もなくすべての人にさし向けられているのであり、全くイエスの愛の精神において、そこから誰も除外されない。」(NTD新約聖書註解9 テモテへの手紙・テトスへの手紙・ヘブライ人への手紙P37 NTD新約聖書註解刊行会1975

と述べている。神は「わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。」(イザ 65:1-2)と語っておられる。イエスも「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」(マタ 5:45)と語っておられる。神の愛と恵みは良い者にも悪い者にも、及ぶのである。それ故、私たちは全ての人のために執り成しの祈りを献げるべきである。

 

2022/1/11(火) 担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書12:2-6 賛美 新聖歌209

 世界を造り、人の霊を造られた神の業が語られる。神の定められた時が来ればエルサレムは圧倒的な力によって他の国々を打ち倒す。民が見ている現実は周辺諸国によって破壊された都であり、その結果捕囚の民として約束の地から追い出されて捕囚となって苦しんだ歴史であった。しかし神が立ち上がられる時ユダの民は圧倒的な勝利を得る。この戦いの詳細や、敵のその後については語られない。み言葉は私たちをそのようなことよりも、この圧倒的な力は万軍の主から来る力であると証言する(12:5)

 最後の時の圧倒的なユダの勝利について大切なことはエルサレムの救いが奇跡であり、神ご自身の業であるということである。罪の結果苦しむ人々に最終的な勝利と救いを与えるのは神の憐れみ深い御心による。自分で勝利や救いを得たと奢ることが出来る人は誰一人存在しない。神の恵みを数えつつ今日の一日を過ごそう。

 

2022/1/12(水) 担当 高谷清師 ?テモ1:20 新賛美 新聖歌 249

 パウロは「王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」と語る。この箇所についてヨアキム・エレミアスは

「お上のための執り成しの祈りの中に、キリスト者の国家に対するきわめて真剣な態度が、あらわれている。異教徒は皇帝を礼拝したが、これに代わって、皇帝とお上のための執り成しの祈りが、行われたのであり、これは単なる忠誠の表現に留まらず、これが1節の冒頭におかれていることからもすでに分かるとおり、内的関心事として行われたのである(ロマ13:5参照)。教会の国家に対するこの執り成しの祈りは、各個人の政治的立場や、時の政治情勢とは無関係である。教会を迫害する神なき国家に対してすらも、この執り成しの祈りは力をこめてなされた。それは、神なき人々に対しても、神の救済意志は、まったく有効であるのと同様である。」(NTD新約聖書註解9 テモテへの手紙・テトスへの手紙・ヘブライ人への手紙P38 NTD新約聖書註解刊行会1975

と述べている。イエスは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタ 5:44)と語っておられる。イエスご自身、自分を十字架につける人々のために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られた。反対者、迫害者のためにも祈ろう。

 

2022/1/13(木)担当 ラウジー満世師 ゼカリヤ書12:7-13:1 賛美 新聖歌272

 神は歴史に介入してエルサレムの敵を滅ぼされるという物理的な働きに加えて民の心を扱われる。エルサレムの住民の心に憐れみと祈りの霊を注いで彼らを造り変えて下さる。彼らの心が変えられる時に民は大きな嘆きと悲しみに包まれる。とても難しい箇所ではあるが、神が民の心に触れられる時、彼らは罪を知り、悔い改め故の悲しみに満たされると語っているようである。その大きな悲しみに包まれる民のために、神は罪と汚れを洗い清めるための一つの泉を開いてくださる。

 たとえ罪の結果であっても苦しむ民を神は助けて下さる。神の圧倒的な愛と憐れみによって民を助け、心を造り変えて罪を嘆き悲しむ者としてくださる。さらに罪を清めるために泉まで開いてくださる。罪を犯して自ら神に背いて離れた者さえも呼び戻し、神のもとに帰るために罪のきよめの道まで備えて下さる主に心から感謝しよう。私たちも救いに招かれ、神の憐れみによって生かされている者であることを再度確認し、主を賛美しよう。

 

2022/1/14(金) 担当 高谷清師 詩 65:10-14  賛美 新聖歌 520

 詩人は「あなたは地に臨んで水を与え/豊かさを加えられます。神の水路は水をたたえ、地は穀物を備えます。・・・・・牧場は羊の群れに装われ/谷は麦に覆われています。ものみな歌い、喜びの叫びをあげています。」と詠う。ぺトロは使徒言行録において『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。・・・・・主の名を呼び求める者は皆、救われる。』(使 2:17-21)と語っている。かつて、6月に畑に種を蒔いた時のことである。梅雨の時期にもかかわらず、雨が降らず、畑は乾き種は芽を出さなかった。しかし、ようやく雨が降ると種は芽を出し、畑は緑に覆われた。今は宣教にとって厳しい時代である。種を蒔いてもなかなか芽が出ない。しかし、ペンテコステの日に注がれた聖霊は今も共に居てくださる。やがて、聖霊が働いてくださるとき、蒔かれた種は芽吹き、地には喜びと讃美が満ちるであろう。その時を望みつつ、種蒔きに励んでいこう。

 

2022/1/15(土) 担当 高谷清師 ヨハ 2:1-11 賛美 新聖歌 196

 この箇所は「カナでの婚礼」として知られている箇所である。ガリラヤのカナで婚礼があってイエスの母がそこにおり、イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれていた。その場において問題が発生した。ぶどう酒が足りなくなったのである。そこでその家の主人夫婦はイエスの母に助けを求めた。それを聞いたイエスの母はこの問題を携えてイエスのもとに行き「ぶどう酒がなくなりました」と言った。彼女はそれ以上、何もしなかった、即ち、問題をイエスの手に委ねたのである。彼女はイエスがこの問題をどのように解決されるかを知らなかった。しかし、イエスには解決があることを信じていたのである。私たちの歩みには自分自身に関することであれ、他者に関することであれ、解決の方法も見通しもつかないような困難な問題が起こってくる。そのような時、自分で思い悩むのではなく、イエスに告げることである。イエスに告げた後はその問題について思い悩むのではなく、イエスのみ手に委ねることである。全知全能者にして愛であられる神は私たちの思いも及ばぬ解決を与えてくださるのである。