2020/6/15-20

2020/6/15(月) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 聖歌 501

 この箇所にはぺトロが、人々からイエスの弟子であることを指摘されたことに対し三回にわたって否定した後、鶏が鳴いたことが記されている。マタイによる福音書 26:31-35によると最後の晩餐の後イエスが弟子たちに「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。」と言われたことに対してぺトロが「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言ったことが記されている。更にイエスが「はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われるとぺトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言い、弟子たちも皆、同じように言ったことが記されている。これはぺトロをはじめとする弟子たちの強い決意表明であった。この後弟子たちはイエスの素晴らしい告別説教と祈りに預かっている。ぺトロのイエス否認はこれらの出来事の数時間後のことであった。これらの出来事は人間の決意の如何にもろいものであるかを示している。パウロは「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」(?コリ10:12)と述べている。人間の弱さを自覚し、主を仰ぎつつ歩もう。

 

2020/6/16(火) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:6-8  賛美 新聖歌302

 突然の海の嵐に見舞われた船乗りたちは必死でそれぞれの神に祈るが効果はない。ところが船長は呑気に寝ているヨナを見つけ、ヨナの信じる神に祈るように促す。船乗りたちは少なくともこの嵐がいつもの嵐とは違うことを感じ取り、誰かが原因で災難が降りかかっており、その災難の背後には神の力が働いていると考えて、当時の習慣に従ってくじによって神の判断を仰いだ。

 真の神を知らないこの船乗りたちの必死の行動と、神々に問う姿勢を私たちはどのように受け止めるだろうか。彼らなりの信仰心は持っていても真の神を知らず、向き合うことが出来ない彼らを見下して笑うのだろうか。彼らは天地の造り主に祈るすべを知らず、嵐は治まることがなかった。しかし、真の神を知らないながらにも人間の限界を認め、「神」なる存在に頼ろうとする人々の姿がある。自分の限界を求め、確かなものに頼ることを求める人々がここにいる。今の時代にもこのような人々があふれている。すべて救いを求める人々が真の神を見出し、その方に救いを求めることが出来るよう、私たちを用いてくださいと祈ろう。

 

2020/6/17(水) 担当 高谷清師 ヨハ 18:12-27 賛美 新聖歌 136

 師イエスに対してこのように大きな失敗を犯したぺトロではあったが、イエスは彼を捨てることはなさらなかった。イエスは弟子たちに対する教えの中でイエスが地上を去られた後弁護者、聖霊の派遣を約束し、このお方について「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」(ヨハ 16:13)と語られた。よみがえられたイエスはぺトロに「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハ 21:15)と語り、牧者としての使命を与え、弟子たちに「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ 24:47-48)」と語って宣教の使命を与え、「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ 24:49)と語って宣教の力・聖霊の注ぎを約束された。

 人は弱い存在である。しかし神は聖霊によって真理に導き、聖霊によって強くし、不動にものとしてご自身の栄光の為に用いてくださるのである。日々祈り、聖霊に満たされ、主から与えられた使命に仕えて行こう。

 

2020/6/18(木) 担当 ラウジー満世師 ヨナ書1:9  賛美 新聖歌327

 ヨナが自分の信じている神について語っている。ヘブライ人のヨナが信じるのは天地を創造された神である。そしてその神を「畏れている」とも語る。嵐の最中、真の神を知らない船長と船乗りたちがどんなに祈っても海が静まる気配もない中、ヨナはもっとも適切な信仰告白をしている。ヨナはここで「アブラハムの神」を信じていると言わなかったし、「癒し主なる神を信じる」とも言わなかった。神の被造物である海が荒れ狂う中で、その海を造り、支配し、嵐を静めることが出来る神を知っている。立派な信仰理解者である。そのことをヨナ自身も誇っているようでもある。しかし、この立派な信仰理解は役に立っていない。なぜなのだろうか。

 信じている神を知っていること、神について説明できることは、神に頼って生きるということとは異なる。よく神を知っていても、信仰を働かせ、頼り、従うという実践がなければ虚しい。神について知るのではなく、神を知り、信仰の実践を伴う生活を送ろう。

 

2020/6/19(金) 担当 高谷清師 詩 52:10-11  賛美 新聖歌 42

 詩人は「あなたが計らってくださいますから/とこしえに、感謝をささげます。御名に望みをおきます/あなたの慈しみに生きる人に対して恵み深い/あなたの御名に。」と詠う。この箇所について鍋谷尭爾師は「9節の「あなたが、こうしてくださったのですから」〈筆者注新改訳〉は動詞だけで、いったい何をしてくださったのか言われていませんが、主の恵みと力に全く信頼して、主のなさることはすべて良いという確信の表明を、ここに見ることができます」(『詩篇を味わう?P111いのちのことば社 2006)と述べておられる。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(?テサ5:16-18)と述べている。私たちはしばしば「・・・・・してください」「・・・・・与えてください」という祈りをしてしまう。しかし神は善・義・聖にして愛なるお方であるという信仰に立つなら、その信仰から出る祈りは常に感謝と讃美になるのではないだろうか。

 

2020/6/13(土) 担当 高谷由紀子師 マコ 11:20-25  賛美 新聖歌 281

 わたしたちは日々様々なことを神様に祈り求めます。しかし、その祈りが聞き入れられるか否か、不安になり疑うこともあります。それに対して主は「少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。」と言われ、信仰を持つよう、励ましてくださいます。また、ヤコブは「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(ヤコ 1:6)と教えています。祈りが聞かれる為には、神が祈りに応えてくださることを信じることが大切です。常に信仰を持って祈りましょう。