2018/8/20-25

2018/8/20(月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:26-29 賛美 新聖歌 345
 イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたユダヤ人たちは、癒された元盲人に対して再び「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」と尋ねる。それは15節においてファリサイ派の人々が発した質問であり、その時癒された盲人は「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」と答えている。ユダ人たちが再び同じ問いを発したのは、癒された元盲人に対し自分たちの主張に沿って「イエスは罪人である」と言わせ、神に栄光を帰させないためであった。しかし元盲人は「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。」と答え、更に「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」と語る。ファリサイ人たちは神がモーセに語られたことに基づく宗教的権威を振りかざしてイエスの御業と栄光を否定しょうとする。それによってイエスにおける神の自由な恵みの御業を受け入れることが出来ないのである。しかし神は生きておられるお方であり、自由に働かれるお方である。権威と伝統は重んじなければならないが、それは聖霊による神の自由な恵みな働きを否定するものであってはならない。

2018/8/21(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書33:14-26 賛美 新聖歌247
 将来における神の回復の業が述べられている。ユダの崩壊という差し迫る現実を目の前にしている中で語られたダビデの家が絶えることがないという約束である。これは天地の造り主である神の約束であるがゆえに力がある。しかし厳しい現実の中にある人びとには信じがたい宣言であった。それゆえに19節で、神ご自身が語られた回復を確実に与え、民を憐れむと宣言されている。具体的な神の救済の宣言を信じたくてもなかなか信じることができないほど厳しい現実に直面している民がどのようにして信仰を奮い立たせることができるだろうか。それは現実を見ることや同胞に頼ることにはよらない。そのような中で信仰を奮い立たせる根拠はただ神がどのようなお方であるかというこの一点に尽きる。神はかつて契約を結ばれた神であり、天地万物を創造された神である。だからこそ希望のない現実の中で救いを大胆に語ることがおできになる。
 私たちの信仰が試されるとき、ただ神が創造者であり憐れみ深い神であることを知る時に、疑うことなく再び信仰を奮い立たせることができる。日々神との関係を建て上げ続けたい。

2018/8/22(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:30-34 賛美 新聖歌 346
 ファリサイ人たちの「あの者がどこから来たのかは知らない。」という言葉に対し癒された元盲人は「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。」と答え、更に「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」と語っている。神は罪人の祈りはお聞きにならない。その罪によって神から断絶しているからである。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きくださる。彼は自分の癒しをイエスの祈りが神によって聞かれた結果とし、更にそれはイエスが神の許からこられたお方の証であると語る。
 主は「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」(ヨハ14:11)と語っておられる。イエスの御業を通してイエスを神の子と信じるのである。

2018/8/23(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書34:1-7 賛美 新聖歌315
 当時ユダは北方のバビロンと南のエジプトという二つの大国の間でどちらに頼ることが有利であるか画策していた。この時、ユダのゼデキヤ王はエジプトの援助を当てにしてバビロンの支配から逃れようとしていた。しかしバビロンの脅威はユダに差し迫り、ユダの要塞の町々が陥落していった。エルサレムにまで危機が迫る中でエレミヤは主のことばをゼデキヤ王に伝えている。それは気休めの慰めと平穏を語る言葉ではなかった。王自身はバビロンに連行される。しかしその中でも悲惨な死を遂げるとがないという、かすかな憐れみが語られている。この現実的な裁きにおいて、預言者はなお神に主導権があることを伝えており、王が神に服従し、正しい道を歩むよう励ましている。これによって最悪の結末を免れるかすかな希望を与えている。
 神は気分に任せて民に対する裁きと恵みを与えられるわけではない。いかなる時にも神を信じる人びとが神に従い、正しく応答することによって神の憐れみが示されるのである。日々神の前にどのように歩むかが大切である。

2018/8/24(金) 担当 高谷清師  詩 38:12-13 賛美 新聖歌 205
 ダビデは「疫病にかかったわたしを/愛する者も友も避けて立ち/わたしに近い者も、遠く離れて立ちます。わたしの命をねらう者は罠を仕掛けます。わたしに災いを望む者は/欺こう、破滅させよう、と決めて/一日中それを口にしています。」と訴える。ダビデが順風満帆の時には彼を誉めたて、周囲に集まってきた者たちも、一旦逆境に陥ると彼らはダビデから距離を置くようになり、親族さえも離れて立つようになったのである。そればかりではなく、今まで鳴りを潜めていた敵対者たちは罠を仕掛け、破滅させようと日夜談合を繰り返すのであった。このような状況は世の常であり、今日も変わることはない。しかし、主は「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハ14: 18)と約束しておられる。いかなる時にも主は信じる者と共にいてくださるのである。

2018/8/25(土)担当 高谷由紀子師 マコ 2:13-17 賛美 新聖歌 311
 イエスは通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。この招きに応じてレビはイエスに従った。ある日、レビはイエス様一行を招いて食事の席を設けた。そこにはイエスと弟子たちと共に、レビの同僚であった徴税人や罪人が席に着いていた。これを目にしたファリサイ派の律法学者は、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われた。世の人々は自分の正しさを示すために罪人との交わりを断とうとする。しかし主は罪人を招いて悔い改めさせ、義とするために来てくださった。イエスに来る人はすべて彼によって義とされるのである。”,,532″