2018/8/27-9/1

2018/8/27 (月) 担当 高谷清師 ヨハ 9:34 賛美 新聖歌 404
 この段落はファリサイ人が「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出したことによって閉じられる。神は、律法をイスラエルが神との関係を正しく保ち、命に歩むために与えられた。しかし、ファリサイ人たちは律法の真意を無視し、文字にこだわり、自己を絶対化し、外形的に律法を守り得ない者を罪人として排除した。このようなファリサイ人に対して主は「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」(マタ 23:13)と述べておられる。明治の時代、当時の教会の状態について厳しく批判し、警告を発した人物がいた。しかし当時の教会はその批判を光として自らを吟味するのではなく、自己保身欲から彼を異端者として退けた。当時、この批判に真摯に向き合っておれば、日本社会における今日ほどの教会の凋落は避けられたのではないだろうか。パウロは「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。」(フィリ 2:21)と述べている。謙って自分を捨て、イエス・キリストを求めよう。

2018/8/28(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書34:8-22 賛美 新聖歌396
 債務奴隷の処遇を巡っての出来事が記されている。律法によって同胞であるイスラエルの奴隷を時が満ちたら解放しなければならないと定められていた。この神の命令を民は蔑ろにした。一旦心からの悔い改めをもって解放すべき奴隷を解放したにもかかわらず、態度を翻して再び彼らを奴隷としている。これは神に背く罪であった。神は契約に背く人びとを死に引き渡すことによって解放すると言われる。
 神に従うということは一時の気分によって気が向く時だけ言うことを聞くというようなものではない。生涯かけて従い通すということである。当然そこには心から自発的に従うという姿勢が伴わなければならない。形式だけ整えた、一時的な従順で神の御心に適う者となることはできない。

2018/8/29(水) 担当 高谷清師 ヨハ 9:35-38 賛美 新聖歌 427
 彼が会堂から追い出されたことをお聞きになったイエスは。再び彼に出会い、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は既にイエスを預言者として(17節)、癒し主であるとして(32節)、神のもとから来られた方であるとして(35節)認識していた。そのような彼にイエスは「あなたは人の子を信じるか」即ち「人となられた神」を信じるかと問うておられる。それに対して彼は「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と答えている。するとイエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と答えられた。すると彼は「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた、即ちイエスを神と信じ、礼拝したのである。ヨハネは第一の手紙において「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」(?ヨハ5:5)と述べている。私たちの信仰はイエスを神の御子、唯一の救い主と信じることである。

2018/8/30(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書35:1-19 賛美 新聖歌388
 ここでは突然レカブ人が登場する。主はエレミヤを通して彼らが父祖の命令を守るか否かを試された。エレミヤが彼らの父祖から受け継いできた教えを破るような申し出をしたときに、彼らは躊躇なくエレミヤの申し出を拒んでいる。またその理由も、これまで忠実に守ってきた父祖の教えをバビロンの攻撃を受けてエルサレムに避難しているという非常時においても例外なく守るためであるとはっきりと述べている。突然言及されているこのレカブ人を通してユダの人々は自らの神に対する態度を問われる。レカブ人が父祖の教えに対して忠実である一方、ユダとエルサレムの住民は主である神に従わない、不忠実な者だと示され、災いを告げられる。
 神があらゆる事態において、その民に求めておられるのは「従順」である。神の民やクリスチャンというタイトルを持つことだけでは不十分である。日々神の恵みに応えて神の言葉に従う生き方を選び取っていくことを私たちは求められている。

2018/8/31(金) 担当 高谷清師  詩 38:14-15 賛美 新聖歌 444
 逆境に立たされたダビデを見て、彼を避けて立つ愛する者、遠く離れて立つ近親者、命をねらって罠を仕掛ける者、欺こう、破滅させよう、と決めて一日中それを口にする者、ダビデに災いを望む者達を前にしてダビデは「わたしの耳は聞こえないかのように/聞こうとしません。口は話せないかのように、開こうとしません。わたしは聞くことのできない者/口に抗議する力もない者となりました。」と語る。逆境に陥った時、彼に背を向け、彼の言葉を無視し、陥れようとするのは世の常である。ダビデはこの時、一切聞かず、口を開かず、神に委ねた。イザヤは主イエスについて「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イザ 53: 7)と預言している。マタイは裁判の席における主イエスについて「そこで、大祭司は立ち上がり、イエスに言った。『何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」』(マタ 26:62-63a)と記している。パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12:19)と述べている。逆境の時、試練の時も主を信頼し主に委ねよう。

2018/9/1(土)担当 高谷清師 マタ 24:36-39 賛美 新聖歌 372
 主はご自身が再びおいでになる時について語られる。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」それはノアの時と同じであると言われる。神は、地が神の前に堕落し、不法に満ちているのをご覧になって、洪水をもってこの地を滅ぼすことを決意し、ノアに箱舟の建造をお命じになった。ノアは神の命令に従い、命令通りに箱舟を建造した。そして人々に警告し、箱舟に入るように勧告した。しかし人々にはノアの勧告はたわごとにしか響かず、人々は肉欲のままに生活した。一方、ノアを通して語られた神の警告は確実に実現し、箱舟に入ることを拒んだものはすべて滅ぼされた。主が再び来られる時もそれと同じであると言われる。それ故、私たちは今日も神のみ言葉に忠実に歩もう。”,,555″