2019/2/4-9

 

2019/2/4(月) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 389

 イスカリオテのユダの言葉によって困惑が広がっている中でイエスは「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と語られた。イエスの時は目前に迫っていた。この時点で、最高法院のイエス殺害の決議はあったが、イエスの時が切迫していることを、イエスを除いては理解している者はいなかったであろう。マリアもまた、同じであったであろう。しかし、彼女はイエスに対する深い愛と信仰により、彼女を突き動かす力によってこのことを行ったのである。この箇所についてカルヴァンは「かれは、やがて埋葬されるひととして油をぬられている。弟子たちは、まだそのことを知らなかった。もちろん、マリヤも、突然霊の導きに促されて、それまで思いもしなかった行為におよんだのである。しかし、イエス・キリストは、弟子たちがきわめてよくないと考えたことを、自分のよみがえりの希望へとさしむけ、その行為のうちにある有効性を示して、意地の悪いよこしまな判断からかれらをひきはなそうとした。」(カルヴァン新約聖書注解?ヨハネ福音書下新教出版社1965401)と記している。私たちが霊に導かれる時、その意味を自らの理性で納得できない時があるかも知れない。しかし、それが霊の導きと確信でき、行動へと促されるなら従おう。それによって神は自らの御心を行われる。

 

2019/2/5(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書50:35-46 賛美 新聖歌361

 圧倒的な力を持ち、国々を滅ぼしてきたバビロンは自身の力を過信し、驕り、弱者をあざ笑っていた。勢力をどんどん拡大していく中で、この新興大帝国が自国の敗北と滅びを考えることなどなかっただろう。しかし神の言葉は明確である。バビロンを滅ぼすために主が剣をもたらされる。特に40:41-436:22-24でシオンに向けて語られていた言葉であった。かつて神に背いたためにバビロンによって滅ぼされたエルサレムに向けたこの言葉を、今、神はバビロンに向かって語られる。つまり、神の裁きは誰であれ神を侮り、自分を神の座につけるような高慢で不従順な罪に陥っている者に対して語られるのである。

 私たちも「クリスチャン」だからどのような歩みをしても許されるのでなない。常に神を愛し、神の前にへりくだり、神の言葉に従う歩みを実践していこう。

 

2019/2/6(水) 担当 高谷清師 ヨハ 12:1-8 賛美新聖歌 355

 イエスがラザロを生き返らせたことを見、また伝え聞いた人々は、イエスとラザロに多大な好奇心を抱いた。そのような中、イエスはべタニアに来られた。このニュースはすぐに拡散し、エルサレムにも伝わった。これを聞いた多くの人々がイエスとラザロを見るためにエルサレムを離れてべタニアに押し寄せた。この様子を目の当たりにした祭司長たちは、ラザロをも殺そうと謀った。ヨハネは「多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである。」と記している。この箇所について江口武憲師は「既にラザロの甦りのあった直後、大祭司とパリサイ人たちは主イエスを殺す方針を決めていた〈1153〉。しかし今や、主イエスだけでなく、死人のなかからよみがえったラザロをも抹殺することを協議する。この箇所はラザロのよみがえりがいかに衝撃的な出来ごとであり、いかに祭司長、パリサイ人たちの不安と怒りを惹き起こしたかを示すとともに、主イエスより救われた者は、生死を主イエスと共にするものであることを示しているように思う。」(説教者のための聖書講解No3134日本基督教団出版局1980)と記しておられる。イエスは「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。」(ヨハ 17:6)と語っておられる。救われた私たちは常に主イエスのものであり、イエスと共に歩むのである。

 

2019/2/7(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書51:1-5 賛美 新聖歌366

 ここでもバビロンとイスラエルを対比している。バビロンに対するさばきが語られているこの時にはイスラエル立場はバビロンと全く対照的な位置にある。バビロンはさばきを受けて滅ぼされるが、イスラエルについては万軍の主に見捨てられないという。しかしこれはイスラエルが神の民であってバビロンは異邦人だからという神との関係性に基づくと簡単に言い切れるものではない。今、見捨てられないと明言されているイスラエルもすでに神の裁きを受けて国を失い、バビロン捕囚を経験したのである。バビロンとイスラエル両者の現時点での違いは、イスラエルが背きの罰をすでに受けたのに対してバビロンは神に対する罪の裁きをまだ経ていないということに起因する。

 神を信じた人にとっても常に神のみ言葉に従い、主を礼拝しつつ歩むかが大切である。今日、あなたはどう歩むかという主の御声を聞きつつ、正しい歩みを重ねよう。

 

2019/2/8(金) 担当 高谷清師  詩 41:5-11  賛美 新聖歌 209

 詩人は、かつては指導者であったが、自ら犯した罪の故に病の床に就いていた。5-11は病床にあった時の詩人の祈りが記されている。この箇所についてA. ヴァイザーは「祈り手は明らかに、彼の病気が自分の罪に対する神の罰であると考えており(5b)、それゆえこの祈りは神の恵みを乞うことに始まり、また締めくくられる(511)6節以後では病気と罪のテーマが後退して、敵がもたらした絶望と危険についての嘆きが前面に立ち、作者自身は病気が癒されることによって彼らのそしりに対する〔神の〕弁明を得たと感じている。だがこのことを理由に、彼の罪の告白と神の恵みを乞う祈りは、内容空疎な形式的手続にすぎないと極め付ける(シュテルク)のは無理である。一方では神に対して真撃な罪の意識を抱きつつ、他方では人間である敵によって加えられた具体的なそしりに対して無実の意識を持つこと。その両者は少しも矛盾しない。いや、まさにこうした両立こそ、この詩が人生に即した真実を示していることの証であり、作者の誠実を否定するどころかかえってこれを肯定するものである。〔ルターのことばをもってすれば〕「義人にして同時に罪人」いうことになろう。作者を実際に苦しめている刺は、――この点でヨブと似ているが――彼が真の思いやりと慰めを見出す代わりに、敵のそねみや憎しみ、そしりの的にされ、しかも友人すら彼に向かって高慢な態度を取ることである(ATD旧約聖書註解詩篇上P4512ATDNTD聖書註解刊行会1983)と述べている。イエスは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(マタ 7:1-2)と教えておられる。また、パウロは「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」(ロマ 12: 19)と述べている。私たちは試練の中にある人々に、謙虚に、愛をもって接する者でありたい。

 

2019/2/9(土)担当 高谷由紀子師 ヤコ 1:12 賛美 新聖歌 284

 ヤコブは「誘惑に遭うとき、だれも、「神に誘惑されている」と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです。」と語っています。アダムとエバを誘惑したのは悪魔であり、イエスを誘惑したのも悪魔でした。このように、誘惑は常に悪魔から来るのです。そして人が誘惑に陥るのは自分自身の欲望に引かれ、唆されるからです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。パウロは「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」(ロマ 6:17-18)と述べています。欲望に引かれ、唆され、罪に陥り、死に定められた者でしたが、イエスキリストを信じる信仰により、罪から解放され、永遠の命に移されたのです。いかなる時にも信仰によって歩みましょう。