≪デボーションの友≫2023/11/27-12/2

2023/11/27(月) 担当 高谷清師 ルカ1:46-56  賛美 聖歌(総)414 聖歌 414

 「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。」20~30歳くらいも年齢差があるであろう二人の間で年長のエリサベトが「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは」と語っているのである。「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。」と記されている。エリサベトがマリアの胎に宿る子を「わたしの主」と認識しマリアを「わたしの主のお母さま」と認識したのは聖霊によったのである。パウロは「ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(Ⅰコリ 12:3)と語っている。常に聖霊のみ声に耳を傾けよう。

2023/11/28(火)担当 ラウジー満世師 創世記49:22-26 賛美 聖歌総合版516 聖歌498

 他の部族の祝福に比べてヨセフへの言葉は際立って長い。ヨセフは驚くほどの祝福を語られている。ヨセフの繁栄は実を結ぶ若木にたとえられている。豊かな水源も与えられ、必要な水を得た木は活き活きと成長し、実を結ぶ。圧倒的な神の祝福を受けている。このヨセフに対しても敵対者の攻撃は仕掛けられる。敵からの攻撃は避けられない。しかしそれらの攻撃に対しても素早く対処することが出来る。

 神の祝福は選びに従って与えられる。主の祝福が注がれる時、それをとどめ得る者はいない。それほど圧倒的な祝福をここでは約束されている。神は御心に従ってそれぞれに祝福を与えて下さる。主に与えられた恵みを数え、喜び、主と共に歩もう。

2023/11/29(水) 担当 高谷清師 ルカ1:46-56  賛美 聖歌(総)488 聖歌 471

 マリアは「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」と詠い始める。この箇所について加藤常昭師は

「私が最初に、この書物(ルター著マリアの讃歌)を読んだときに、忘れることのできない印象を与えられた言葉は、そのごく初めに出て来る、こういう意味の言葉であります。「わたしの魂は主をあがめ」とあります。ドイツでは、むしろ「わたしの心」です。とにかく、ここでは「わたしは主をあがめ」と言ってはいないということを、ルターは強調いたします。私が、神をあがめるのではなくて、私の心が、神をあがめてしまうのだとマリヤは言う。そう理解するのです。自分のいのち、自分のこころが、日本語の翻訳で申しますと、神への愛、賛美、喜びのなかに「浮動している」と訳されておりました。私は、その言葉にたいへん驚きました。心が動いている。浮いて、動いている。どこに浮いて、動いているのか。神への愛のなかに浮いて動いている。(中略)私の心が、そのように動くがままに歌を歌い始める。自分で止めることができません。自分で立ち上がって神をほめたたえるのではない。神をほめたたえるために、私は立ち上がらせられたのです。」「(加藤常昭説教会集13  ルカによる福音書1P119-120ヨルダン社1995)」

と述べておられる。と語っておられる。マリアは聖霊に満たされ、神の愛、喜びに押し出されて神を賛美したのである。パウロも「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロ 3:16)と語っている。理性で神を賛美するとともに聖霊に押し出されて神を賛美しょう。

2023/11/30(木)担当 ラウジー満世師 創世記49:22-28 賛美 聖歌総合版501 聖歌484

 25節から26節はヨセフへの祝福の言葉の後半である。ここではヤコブを祝福なさる神が、あなたの父の神、全能者として述べられている。この神が与えられる「祝福」が何度も語られている。天から下の淵までの全ての祝福がヨセフの頭上にすべて注がれるのである。なぜヨセフの上にだけこれほどの豊かな祝福が約束されているのかは詳細に説明されてはいない。ただ一言、「兄弟たちから選ばれた者」(49:26)とだけ語られている。

 神はご自身の選びとご計画に従ってそれぞれのために定められた祝福を与えられる。人は自分に与えられる祝福についてそれが与えられた理由を求める。しかし神はそれぞれにふさわしい祝福を与えられる(29:28)。他の人に与えられた祝福を羨んだり、自分と比較したりすることなく、神の御心に従って自分に与えられた祝福を、感謝をもって受け、それを正しく用いて神の栄光を現す者となりたい。

2023/12/1(金) 担当 高谷清師 ルカ1:46-56  賛美 聖歌(総)490 聖歌 473

 加藤常昭師は言葉をつないで

「もうひとつ私が、ルターに学んだことがあります。〈マリヤの賛歌〉は、外国語で申しますと、「マグニフィカート」というのです。この歌のラテン語の言葉の最初が、このマグニフィカートという言葉であることに由来するのです。これは、「大きくする」、相手を大きくする、という意味の言葉です。神をあがめると言うのは、神を大きくするということです。この言葉も、私は心に刻みました。神さまを大きくすること。(中略)その神の愛の大きさのなかにむしろ自分が捉えられ、自分が、その中で浮いているような喜びがここに語られているのです。(加藤常昭説教会集13  ルカによる福音書1P120ヨルダン社1995)」

と述べておられる。パウロは「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。」(Ⅰコリ 6:19)と語っている。私たちが自らの内に神を大きくするとき、「イエスは主である」と言う信仰告白が生まれる。

2023/12/2(土) 担当 高谷清師 ルカ1:46-56  賛美 賛美 聖歌(総)502 聖歌 485

 マリアは「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」と詠い、「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、」と詠う。この箇所について加藤常昭師は

「ここで「あわれみ」と訳されていることばは旧約聖書では「真実」と訳されたこともある言葉であります。「誠実」と言ってもよいと思います。この真実、誠実は、五四節に、「あわれみをお忘れにならず」という言葉がありますように、忘れない真実でもあります。ひとときのあわれみでない、常に、相手を心に留める真実であります。もうひとつは、五五節で申しますと、「とこしえにあわれむと約束なさったとおり」とありますように約束の言葉を忘れることのない真実と言ってもよいと思います。(中略)私どもの毎日の生活は神さまに忘れられてしまったのではないかと思う、そうゆう思いの連読であることがあります。(中略)しかし、そこでなお語ることができ、歌うことができる慰めが生まれた。神は、あなたのことを忘れていないのだと語ることができる言葉であります。そして、私どもに対する救いの約束に真実であり続ける神のあわれみのなかに浮くことができるのです。この事実だけが、私どもの真実の支えであると私は思います。(加藤常昭説教会集13  ルカによる福音書1P123ー127ヨルダン社1995)」 と述べておられる。神の真実、神の聖実に全幅の信頼を置いて歩もう。