≪デボーションの友≫2023/11/20-25

2023/11/20(月) 担当 高谷清師 ルカ1:39-45  賛美 聖歌(総)196 聖歌 229

 前単元においてイエスの誕生が予告された。ザカリアに対してヨハネの誕生が予告された六か月目の出来事であった。神から遣わされた天使ガブリエルがダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめマリアのもとに遣わされたのである。ガブリエルは「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」と告げたのである。あまりの重要な内容であった故にマリアは天使に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えた。それに対して天使は「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と語り、「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」と語った。この出来事が神の御業であり、人間によらず、聖霊によるのであり、「神にできないことは何一つない。」ことを知っていたマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と語り、信仰によって天使の言葉を受け入れたのである。人間の常識ではありえない事柄もそれが神から出たものである時、信仰によって受け入れることによって神の御業は成就する。

2023/11/21(火)担当 ラウジー満世師 創世記49:13-18 賛美 聖歌総合版633 聖歌595

 続いてゼブルン、イッサカル、ダンについて述べられている。ゼブルンは海辺のシドンに至る地域に住む。貿易によって豊かになったのかもしれないし、またシドンに定住するために強制労働に服して、他国民に依存していたのかもしれない。イッサカルも力強いけれども快適な生活を手に入れるためには自由を手放し、苦役に甘んじている。ダンについては民を裁く働きを託されていた。これによって弱者をかばい、守るものであった。しかし草むらに隠れて突然馬の脚の踵にかぶりつき、危険を伴う奇襲攻撃を行わなければならない。

 それぞれの部族に対する言葉は必ずしも美化された部族の姿を心地よい言葉で描いているわけではない。評価が良いのか、悪いのか、一見理解しづらい言葉で書かれながら、その中に挿入される主の救いを待ち望むという祈りの一文が印象的である。主と共に生きる民も完璧な歩みが出来るわけではない。しかし、主の救いを求めて憐れみの内に生かされる。日々主を見上げ、主の憐れみの内に生きよう。

2023/11/22(水) 担当 高谷清師 ルカ1:39-45  賛美 聖歌(総)541 聖歌 523

 天使が去った後、マリアは急いで山里に向かい、ユダの町に行った。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」と語った天使の言葉に従い、現実となりつつある神の言葉を確認するためであったかもしれない。イエスの弟子となったフィリポはナタナエルに出会って「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言った。するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスと出会ったナタナエルは「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と告白している。眼前に起こっている神の御業をまのあたりにする時、私たちの信仰はより確固とした者とされる。偉大な信仰者に触れることの重要性が、そして私たちに与えられた恵みを分かち合い、証しすることの大切さがここにある。受けた恵みを証ししょう。

2023/11/23(木)担当 ラウジー満世師 創世記49:19-21 賛美 聖歌総合版635 聖歌597

 続いてガド、アシュル、ナフタリに対する言葉が語られる。ガドへの言葉は語呂合わせを用いて語られている。ヨルダン川東岸において、隣接する民族から絶えず脅かされていたガドの状況がうかがえる。その状況において抵抗することが出来たガドが認められている。アシュルは豊かな土地に住んでいる。その豊かさゆえに多くの税を納め、宮廷の経済を支えていた。ナフタリは女鹿にたとえられている。機敏で自由な部族であったようだ。士師記4章から5章にはナフタリがイスラエルのために戦い、勝利したことが記されている。

 イスラエルの諸部族はそれぞれの特徴を持っていた。困難な状況に生きていた部族もあれば、豊かに祝福されていた部族もあった。それらの一つ一つが神に用いられ、互いに主の前に責任を負いつつ、イスラエルとして歩んでいた。神に召された者は多様であり、個性的である。それぞれが主のもとに一致して歩むときに主の恵みを受ける。主を信じる一人一人が神によって一致しよう。

2023/11/24(金) 担当 高谷清師 ルカ1:39-45  賛美 聖歌(総)414 聖歌 414

 ユダの町にやってきたマリアはザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。」と語った。マリアとエリサベトは文面から見て30-40才くらいの年齢差があったのではないだろうか。それにもかかわらず、エリサベトはマリアを「わたしの主のお母さま」呼んでいる。エリサベトは聖霊に満たされて語ったのである。エリサベトの姿と言葉の内容は天使がマリアに告げたものと一致する。それはマリアの賛歌へとつながっていく。

2023/11/25(土) 担当 高谷清師 ルカ1:39-45  賛美 新聖歌 282

 エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」と語っている。洗礼者ヨハネの誕生の予告を与えられた祭司ザカリアは人間的に見た状況の故に天使の言葉が信じられなくて「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」と語り、しるしを求め、この事の起こる日まで話すことができなくなった。復活されたイエスが弟子たちにご自身を顕された時その場に居合わせなかったトマスに弟子たちが「わたしたちは主を見た」と語ると、トマスは「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言った。八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そしてトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」言われた。トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われた。ヘブライ人への手紙11章は神の言葉を信じる者の幸いについて語っている。み言葉に対する信仰によって歩もう。