≪デボーションの友≫2023/7/10-15

2023/7/10(月) 担当 高谷清師 ルカ 3:15-18  賛美 聖歌(総)608 聖歌 574

 ルカは「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」と語る。当時のユダヤはローマの支配下にあって、民衆はその圧制に苦しんでいた。また、イエスが大麦のパン五つと魚二匹とをもっておおよそ5000人を養われたのを見た群衆がイエスを王としょうとした。当時の群集は政治的な救い、経済的な救い、病からの救い、悪霊の支配からの救い等々を求めていたのである。しかしヨハネが先に「「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」と語ったように、人々が真に求めるべき救いは罪の赦しと世からの解放であることを明らかにする。これは今も同じである。

2023/7/11(火)担当 ラウジー満世師 創世記42:29-38 賛美 聖歌総合版414聖歌414

 エジプトから帰った息子たちは父に報告する。それは父がもう一人の息子を失ったという悲しい報告であった。さらにそれぞれの袋の中に銀が入っているという不可解な状況に困惑した。ヤコブはヨセフに続いてシメオンまで失った悲しみを率直に語り、エジプトの高官から要求されているベニヤミンを連れて行くことは明確に拒んだ。既に二人の息子を失っている父にとって受け入れられないことであった。最愛の妻ラケルの子どもの中でただ一人手元に残っているベニヤミンまでも失うと考えただけでも耐えがたい苦しみと悲しみであった。

 兄たちは過去に犯した弟ヨセフに対する罪によってこれほど父を悲しませていることを理解しているが、その罪を告白しない。ルベンは責任を感じて二人の息子を犠牲にしても構わないと言いながらも過去の罪については沈黙している。罪を隠し通そうとする時、その影響は第三者にも及び、大きな悲しみと苦しみを引き起こすことがある。罪は神との関係において取り扱われるべきことだが、罪の結果は人々をも苦しめる。他者との関係に生きる私たちはこのことをも心に留めなければならない。

2023/7/12(水) 担当 高谷清師 ルカ 3:15-18  賛美 聖歌(総)495 聖歌 478

 民衆が心の中で自分をメシアではないかと考えているのを察知したヨハネは「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と語る。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。」ということばについて考えてみよう。当時、履物のひもを解くという仕事は異邦人の奴隷の仕事とされていた。ヨハネはその値打ちも無いと言うのである。換言すればこれから来られるメシアは自分とは異次元のお方であると言っているのである。イエスは「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタ 11:11)と語っておられる。

2023/7/13(木)担当 ラウジー満世師 創世記42:29-38 賛美 聖歌総合版409 聖歌409

 ルベンは自分たちの罪のために父を悲しませていることに責任を感じていたが、なおベニヤミンを連れてエジプトに行かなければならない。末の弟を無事に連れ帰ることが出来なければ、自分の二人の息子の命をも差し出すという決断によって悲しむ父を説得しようとした。ルベンなりにヨセフの件での罪と向き合い、何とか自力でシメオンの件、食糧確保の件を解決しようとしている。しかし罪のゆえに直面している危機は、その罪を正しく扱わなければ解決できない。過去の罪は人目に触れないように隠し通し、それに代わる善行によってなかったことにできるものではない。

 誰でも罪を犯したら正しくそれに向き合わなければならない。まず神の前に罪を告白し、悔い改める。そして罪の行為は周囲の人々をも苦しめることを覚え、罪によって壊された信頼関係、与えた苦痛や損害は責任をもって対処しなければならない。そこには神への信仰に基づく周りの人々への誠実な対応が求められる。神を愛する者として人々の前にも誠実に生きよう。主の助けによって。

2023/7/14(金) 担当 高谷清師 ルカ 3:15-18 賛美 聖歌(総)604 聖歌 570

 ルカはメシアの働きについて「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と語る。この箇所について吉村和雄師は

「水による洗礼と、聖霊と火による洗礼は別なものだということである。水による洗礼は、人間の力で出来ることである。しかし、聖霊と火による洗礼は、人間の力ではなし得ない。この違いは決定的であって、ヨハネはそのことを、わきまえていた。ヨハネが授けていたのは、罪が赦されることを目的とし、そこに向かって授けられる洗礼である。それは、悔い改めの洗礼、すなわち、悔い改めに基づいた洗礼であった。(中略)それは、罪の赦しを目的として授けられた。しかし、それだけで罪の赦しに到達することはできない。真実な悔い改めの思いをもって洗礼を受ける者を、現実に罪から解放する業は、神のみがおできになる業であって、人間の業ではないのである。実際のところ、ヨハネから洗礼を受けた人々は、(中略)生活の中でヨハネの教えを実践するように努力したであろう。それは努力して造り上げるべきものであった。その意味で、ヨハネの教えは、教えとして留まる。ここに、人間の業としての、水による洗礼の限界がある。その限界を突き破って、わたしたちを罪から解放してくださるのがメシアのお働きであり、それはメシアが授けてくださる、聖霊と火による洗礼によるのである。」(説教黙想アレテイア ルカによる福音1-11章P102-103日本キリスト教団出版局2014)

と述べておられる。自分の業を捨て、神の恵みの内を歩もう。

2023/7/15(土) 担当 高谷清師 ルカ 3:15-18  賛美 聖歌(総)684 聖歌 635  ヨハネは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」と語って、メシアの働きのもう一つの面について語る。福音書記者ヨハネは「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハ3:18-21)というイエスの言葉を記している。またヨハネの黙示録は「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、/ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」(黙1:7)と語っている。私たちの罪を負って十字架に架かり、血を流し、死んで葬られ、父なる神によって甦り、私たちの救いを成し遂げてくださった御子は、やがて、定めの時に裁き主としておいでになるのである。甘えを捨て、畏れの念をもって御前に歩みを全うしょう。