≪デボーションの友≫2023/7/17-22

2023/7/17(月) 担当 高谷清師 ルカ3:21-22  賛美 聖歌(総)627 聖歌 589

 ルカはこの箇所に「イエス、洗礼を受ける」という表題を付している。イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられた記事はマタイ(マタ3:13-17)とマルコ(マル1:9-11)も記している。費やしている節の数はルカが最も少ない。しかし、イエスが「洗礼を受けて祈っておられる」と記しているのはルカだけである。この箇所だけではなく、ルカはイエスがこの、公生涯の始めの時をはじめ、その御生涯を通して常に祈りの人であられたことを記している。特に、イエスは十二弟子の選定を始め、重要な決断をされる時には夜を徹して祈られた。

 キリスト者生涯は世にあって世を友として歩むのではなく、神の導きを求め、神と共に歩む生涯、換言すれば祈りの生涯である。自らの定めた時、神のみ前で跪いて祈る時間だけでなく、全ての時が神の導きを求め、神と共に歩む祈りの歩みでありたい。

2023/7/18(火)担当 ラウジー満世師 創世記43:1-10 賛美 聖歌総合版511 聖歌493

 なお飢饉は続いている。エジプトから持ち帰った食料も尽きると、兄弟は再度エジプトに行けと命じる父と交渉をしなければならない。末の弟を同行させなければならない。ラケルとの間に得た子どもは今や末の弟だけであったから、その子をエジプトに送ることは父には耐え難かった。大きな悲しみと苦しみゆえに、ヤコブは食料が尽きるまで再度のエジプト旅行を許可出来ず、末っ子の存在をエジプト人に伝えた兄たちを理不尽にも責めた。

 大きな悲しみは人の行動を制限し、さらなる喪失を怖れて心を閉ざすことにもつながる。今の時代も多くの人々が悲しみのゆえに自由を失い、なすべきことをできずにいる。その悲しみを乗り越えるのは信仰による他ない。一人でも多くの人が神に出会い、信仰によって前進できるよう、主の救いが与えられるために祈ろう。

2023/7/19(水) 担当 高谷清師 ルカ3:21-22  賛美 聖歌(総)608 聖歌 574

 続いてルカは「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」と記している。この箇所について加藤常昭師は

「ここに、神と人間との深い絆が作られた。神は黙ってはおられなかった。そして神そのものに他ならぬ聖霊が鳩のように見えたというのであります。「姿をとって」、と訳されております言葉は、「目に見える姿を示しながら」ということであります。聖霊が鳩になったわけではありません。鳩が降りるかと思われるような、目に見える現実として神の霊がイエスをとらえた。この神の霊が注がれた時に初めて神の子になられたわけではありません。この時初めて、主イエスが何か霊的な存在に変えられたわけではありません。私どもが知っておりますように、主イエスは初めからみ霊によって宿ったマリヤから神の子として生まれ、育たれました。しかしここに、いわば改めてみ霊が注がれた時に、ここに神の霊の目に見える働きが主イエスにおいて始まったことを意味いたします。(加藤常昭説教会集13  ルカによる福音書1Pヨルダン社1995)」

と語っておられる。聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来たことをもってイエスの公の働きが始められたのである。

2023/7/20(木)担当 ラウジー満世師 創世記43:11-14 賛美 聖歌総合版479 聖歌466

 ヤコブがさらなる悲劇を回避したいと願い続けている中、いよいよ食糧難は厳しくなる。信仰によって末息子をエジプトへ送り出さなければ一族全員の命が脅かされる。ついに父はその信仰により決断する。これが唯一の方法ならばと末息子を送りだす決意をし、さらにできる限り無事に食料調達の旅から帰ることが出来るようにこまごまと指示を与える。父は細やかな指示を与えながらも、最終的には神の憐れみによらなければ息子たちが無事に帰ることが出来ないと知っている。それゆえに14節で神に祈り、「このわたしがどうしても子供を失わねばならないのなら、失ってもよい。」と、土壇場で力強い信仰を表す。民族のために神の御心ならば命をかける決心をしたエステルを思い起こすこの信仰の決断である。

 大きな悲しみにとらわれて大胆に行動できなかった父が、悲しみを乗り越える決断が出来たのはただ神への信頼によった。信仰はあらゆる局面で人を励まし、正しい行動への勇気と力を与える。私たちも祈りによって養われる信仰をもって力強く神の憐れみの中で生きよう。

2023/7/21(金) 担当 高谷清師 ルカ3:21-22 賛美 聖歌(総)538 聖歌 520

 「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た時、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。」と記されている。「あなたはわたしの愛する子」ということばについて考えてみたい。詩編第2篇には「お前はわたしの子/今日、わたしはお前を生んだ。」(詩2:7b)と記されている。この詩篇は「王の即位の歌」と言われている。この詩篇について加藤常昭師は

「まことの王が与えられた。その時、これまで自分たちに敵していたすべての民の働きは無意味になる。このまことの王が立てられた時、主なる神が、「おまえはわたしの子」と言われたのです。この詩腐は、人間がしあわせになるためには、まことの王が来なければならないという願いを口にしたものであったかもしれません。やがてそれが、メシヤ、真実の救い主、真実の王が神から与えられる、その約束の言葉として多くの人びとに愛されるようになりました。(加藤常昭説教会集13  ルカによる福音書1P352ヨルダン社1995)」

と述べておられる。この民の待望に応えて神は、このお方こそメシヤ、真実の救い主であられることを宣言されたのである。

2023/7/22(土) 担当 高谷清師 ルカ3:21-22  賛美 聖歌(総)626 聖歌 588

 次いで「わたしの心に適う者」ということばについて考えてみたい。イザヤは「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」(イザ 42:1) (【口語訳】わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。) と語っている。 加藤常昭師は

「「わたしの支持するわがしもベ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ」。「子」と訳される言葉で、しもベとも訳し得る言葉が、ここで用いられているようであります。「わたしの支持する」という言葉は、これはもちろん、「わたしの愛する」という言葉と重なり合うと読むこともできる。それよりも大切なのは、「わたしの喜ぶ我が選び人」であります。神が喜んでおられる。「心にかなう」という言葉は、この第四二章では明確に読み取れますように、「心から喜んで満足することができるもの」という意味です。(加藤常昭説教会集13  ルカによる福音書1Pヨルダン社1995)」

と述べておられる。イエスこそ、神が喜び、満足されるお方、神に100%受け入れられるお方である。それ故、御子を信じる者もまた、神に喜ばれ、受け入れられるのである。  この項の始めに述べたように、聖霊の注ぎと神の語りかけ、その受容は祈りの内でなされるのである。常に祈りによって、信仰により、神と共に歩もう。