2018/6/11-16

2018/6/11(月) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 344
 キリストの言葉にとどまるもの―聖書の言葉を自分の外においてそれを律法的に守るのではなく、キリストとの深い交わりにより、聖霊によってキリストが私たちの内に居てくださり、キリストの言葉が自分の心とされた者―こそ、本当のキリストの弟子である。キリストの弟子とされた者は真理を知る。そしてイエスは「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハ14: 6)と語っておられる真理とはイエスご自身である。真理を知ることのすばらしさについてパウロは「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。」(フィリ 3:5-9)と述べている。キリストを知る者とされていることに感謝し、さらに深く知る者となろう。

2018/6/12(火) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書29:24-32 賛美 新聖歌166
 エレミヤが捕囚民に書き送った手紙に対してシェマヤが感情的に反応している。シェマヤはエレミヤの預言に腹を立て、祭司を利用してエレミヤを排除しようとしている。祭司ツェファンヤはこのシェマヤの要求を聞き入れなかったのは、シェマヤがまことに神の言葉を語っていないと知ったからであろう。エレミヤへの怒りと憎しみによって行動したシェマヤに対してエレミヤを通して語られた神の言葉は、彼が偽預言者であることを冷静に指摘している。エレミヤへの敵意と攻撃に反論するのではなく、神の言葉と称して偽りが語られたことが問題となっている。神の言葉を蔑ろにするシェマヤに対しては子孫までも救いに入れられないという厳しい裁きが告げられる。
 神の言葉を語る時、私たちは慎重かつ誠実でなければならない。神の言葉の権威を用いて私たちの感情と要求を述べることは容易にできる。しかし、それは大きな罪である。

2018/6/13(水) 担当 高谷清師 ヨハ 8:31-47 賛美 新聖歌 264
 続いてイエスは「真理はあなたたちを自由にする」と語られる。神の言葉に背き、悪魔の奴隷となり、罪と死に定められた者を解き放つために、イエスは十字架に架かり、血を流し、命を捨ててくださった。このイエスによって与えられる自由こそ、真の自由である。パウロは「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」(ガラ 5: 1)と警告している。確固たる信仰に立って神に在る自由を守ろう。

2018/6/14(木) 担当 ラウジー満世師 エレミヤ書30:1-3 賛美 新聖歌340
 29章では既にバビロンに捕囚となった人々に対してすぐに帰還できると考えず、そこで生活を建て上げよと述べられ、救いはまだ先だと語られてきた。それに続いて回復の預言を聞くと、読んでいる私たちは驚き、混乱する。さらに注意をひくのはイスラエルとユダの繁栄が述べられていることと、続く言葉にはヤコブ、すなわち北イスラエルへの語り掛けがあることである。約150年も前に滅びた国は人びとの記憶にも殆ど留まってはいなかっただろう。しかし神は決してご自分の民を忘れ去ることはなかった。たとえ人が神に見捨てられたと感じることがあるとしても、神は常に誠実である。それ故に私たちは神に信頼を置くことができる。

2018/6/15(金) 担当 高谷清師  詩37:25-26 賛美 新聖歌445
 老境に達したダビデは自らの生涯を振り返って「若いときにも老いた今も、わたしは見ていない/主に従う人が捨てられ/子孫がパンを乞うのを。」と詠う。この箇所についてカルヴァンは「ここに、きわめて困難で複錯した問題が生ずる。なぜならば、多くの正しい者らが、事実食を乞い歩くまでに追いやられたことは、きわめて確かだからである。(中略)神がこの世において、すべての信仰者に、均等にその恩恵を示されるわけではない。いろいろな理由があるからである。神はある者を懲戒され、他の者はこれを見逃される。あるいは、ある者らの隠れた病を癒されるのに、他の者にはこれを控えられる。なぜならば彼らには、同じ癒しの必要がないからである。ついで神はある者らの忍耐を試みられる。それに応じて、彼らに豪毅の霊が与えられるからである。最後に神は、ある者を範例として示される。しかし、神はその怒りのしるしによって、すべての者を差別なくへり下らせられるが、それはこのような刺棒によって、彼らを悔改めへと至らしめるためである。さらに加えて、神はもろもろの苦難によって、彼らを天にある生命の冥想へと招かれる。」(カルヴァン旧約聖書註解詩篇?P469新教出版社1970)と述べている。ヘブライ人への手紙の記者は苦難の中にある人々に対し「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」(ヘブ12:7)と語っている。いかなる時にも神の御手の内に歩もう。

2018/6/16(土)担当 高谷由紀子師 ?コリ1:18-21 賛美 新聖歌 359
古来、人間は洋の東西を問わず、神を求め、救いを探し求めて来ました。そして多くの知者、賢者を輩出してきました。しかし人を救いに至らせるもの、人に永遠の命を得させるものを見出すことはできませんでした。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになりました。すなわち、罪の無いご自身の一人子を遣わし、このお方にすべての罪を負わせて十字架につけ、血を流し、命を捨てることによって、このお方を信じるすべての人を罪から解放し、救いを得させる道を開かれたのです。これは世の知者、賢者の目には愚かに映ります。しかしこれこそ、神の知恵であり、私たちの救いの唯一の道です。”,,576″