2021/8/16-21

2021/8/16(月) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 聖歌 236

 パウロは「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」と勧める。エフェソの信徒への手紙においてパウロは「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェ2:14-16)と述べている。
 日本においては日本の敗戦によって太平洋戦争が終結した日、1945年8月15日を終戦記念日として種々の平和運動が行われる。しかし、その平和運動推進母体の構成者間の対立によって平和運動自体が分裂をきたす事態が生じているのを見る。このことはいくら平和を叫んでも人間の内には平和は存在しないことを示している。真の平和はキリストにのみ、存在する。
 

2021/8/17(火) 担当 ラウジー満世師 ハガイ書2:10-14 賛美 新聖歌372

 神殿再建工事が再開されてから三ヶ月が経った頃、ハガイは再び口を開いた。ハガイは「聖別」について問いかけている。聖別とは神のために何かを取り分けることである。神殿建築という聖なる神の働きのためには、それに関わる全てが聖められ、特別に聖なる神に相応しいものとして取り分けられることが求められた。しかしハガイと祭司の対話によって今この神殿再建を進めている民はしっかりと聖別されてはおらず、結果として民全体が聖なる神の宮を建てるに相応しい状態ではないことが露呈された。ハガイは遠慮なく、はっきりと、汚れが入り混じったこの民自身、この国、そして彼らの働き、ささげものが汚れていると述べた。汚れているまま働きを進めても神に喜ばれる神殿は建てられない。
 汚れは人々の心の隙を突いて入り込む。神を喜び、強い信仰を持った人の心の内にも巧妙に入ってくる。だからこそいかなる時にもみ言葉と祈りの内に神の前に聖い者として整え続けていただくよう、へりくだって自分を主にあけ渡そう。
 

2021/8/18(水) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 新賛美 新聖歌 355

 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」と語られている。「キリストの平和」は十字架において、キリストによって実現されたものであることを見た。その「キリストの平和」が「あなたがたの心を支配するようにしなさい。」と語られている。「支配する」とは「キリストの平和」を鉄則としてそれに従うことである。すなわち、神の御子が愛と自己犠牲によって成し遂げてくださったその御業に私たちも従うこと、私たちも愛と自己犠牲によって歩むことが求められているのである。それは愛と聖霊に満たされた時はじめて可能となる。
 
2021/8/19(木)担当 ラウジー満世師 ハガイ2:15-19 書賛美 新聖歌427
 神殿の石が積み重ねられて工事が再開した特別な日にハガイは祝福の保障について語る。興味深いことにハガイはこれから受ける祝福から語り始めるのではなく、まずこれまでの状態を心に留めよと呼びかける。豊かな刈り入れを期待して働いても十分な実りは得られなかった。自然の災害で作物は被害を受けた。しかし民は罪を悔い改めて神に帰らなかった。その真っただ中でこの苦境を逆転させるのは神ご自身であった。これからは神が祝福を与えると宣言された。神殿を再建するという民の行動の中に、ないがしろにしていた神礼拝を第一にし、悔い改めて神と共に歩むという決意があった。その時、神は大いなる業として祝福を豊かに注がれる。
 神が与える祝福の約束は地の実りという物質的な側面が述べられた。そして神中心に再建された民の中から時を経て救い主が送られた。神を信じる者は常に神を第一にして歩むよう励まされる。そこに神の豊かな祝福を見る。
 
2021/8/20(金) 担当 高谷清師 詩 63:2  賛美 新聖歌 284
 詩人は「神よ、あなたはわたしの神。/わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。
あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。」と詠う。
砂漠について鍋谷尭爾師は「砂漠は、日本人が考えるような砂がしきつめられている砂丘のようなものではなく、石あり、岩あり、もちろん砂地あり、凸凹のある荒地が果てしなく広がっており、何よりも湿度0%という乾燥地帯です。昼になるとグングンと焼き尽くすような熱さが襲ってきます。口の中は砂ぼこりと渇きでカサカサとなり、絶えず水を補給しなければなりません。エリヤが荒野で、えにしだの木の陰にすわり、「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」(I列王19:4)と言ったことばが現実の体験として感じられました。水のない渇ききった砂漠で、渇ききったたましいは、自分を容易に砂漠そのものと同定します」(『詩篇を味わう?』P195-6いのちのことば社 2006)と述べておられる。
 本節についてA. ヴァイザーは「神への深いあこがれを背後においてまず第一に現れ出るものは、祈り手を神への喜びと感謝でもって満たしているものの非常な大ききである。そのあこがれは、炎熱下にすっかり干上がって水がなくなった荒野を疲れ果てて歩む人の、焼けつくようなのどの渇き(詩42:2-3)に似て、かつて苦難と迫害の続く中で、詩人の魂と肉体をすっかり衰弱させた思いなのであった。」『ATD旧約聖書註解詩篇中P144』ATD・NTD聖書註解刊行会1985)
 パウロは「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです。」(?コリ 5:4)と述べている。真理に至る道、それは安易な旅路ではない。世と妥協して「安価な恵み」に留まるべきではない。
 

2021/8/21(土) 担当 高谷清師 コロ3:12-17 賛美 新聖歌 392

 パウロは「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」と語る。イエスは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(ヨハ 15:4-5)と教えておられる。また、パウロはコリントの信徒への手紙?において「「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」(?コリ 4:6-7)と述べている。日々心を開いて御言を受け入れ、わたしたちを通して御言が働いてくださり、神の栄光が顕されることを祈り求めよう。